1、同朋会運動はエンゲイジド・ブッディズム

社会をつくる仏教―エンゲイジド・ブッディズム

社会をつくる仏教―エンゲイジド・ブッディズム

この本を一読して、なんだか凄いなと思いまして、これからまじめに読み直してみようと思います。

○エンゲイジド・ブッディズムとは何か byティック・ナット・ハーン

彼によれば、ベトナムの仏教はベトナム戦争のもとで、仏教の中核思想である「苦」の解釈に大きな進展を見せた。仏教は世界の本質を「苦」と見る。そしてその原因を明らかにし、その原因を克服する方法を提示する。このような道筋をたどることによって「苦」からの開放を実現するのが仏教なのだが、従来の仏教では、「苦」の原因はもっぱら個人の内面に巣くう無知や欲望と考えられた。しかし、ベトナム仏教徒たちは、戦争という現実の苦しみの中で、「苦」の原因には社会が生み出したものがあるのではないか、と気づきはじめた。そして、「苦」の原因となる社会の矛盾、社会構造の変革に積極的に立ち向かうことになった。


真宗大谷派「同朋会運動」は日本におけるその動きのひとつである。

 清沢満之の信仰運動は真宗教団の開祖である親鸞に還れというものであったが、その原点は「同朋」の自覚にある。「同朋」とは「阿弥陀の本願」という救済原理の前では一切の人間は平等だということ。信仰者の共同体である教団はすべからく平等な「同朋」の集団でなければならない。だとすれば、これからの真宗大谷派という精神共同体が目指すのは、「同朋社会の顕現」ということだろう。
 こうして、平等を求める信仰運動がはじまったのであるが、その過程で生じた最大の壁は、天皇制に匹敵する「法主」制度であった。(略)こうして一気に教団における民主化が実現し、教団の憲法といわれる「宗憲」が1981年6月に新しく制定された。それによると、「法主」は「門首」とあらためられている。「門首」とは信者のリーダーのこと。もはや親鸞の血縁であることを誇り、信者に専制君主として臨むことはない。「宗憲」には、この教団では「何人の専横専断をも許さず」、その経営は「同朋の公議公論」にもとづく、とある。


 「真宗大谷派宗憲」の前文は、私が使っている大谷派手帳の1ページ目にも載っているくらい身近なのだが、「同朋社会の顕現」という抽象的な言葉が何を意味するのか、これまでさっぱり見当がつかなかった。そして「同朋の公議公論」も、なにげなく読み過ごしていた。阿満さんの文章を読むと、あまりにもストレートに入ってくるので、すこし怖くもなるのだが、どういう背景があってこれらの言葉が宗憲に使われたのかが、よく分かる。
 同朋会運動が、社会問題への積極的な関与・参加を促す運動の一環かといえば、これまたストレートには、いっていないし、現在もそのように受け止めている人はとても少ないと思う。しかし、宗派内の運動に留まっているかといえば、そうでもない。

 どうも、阿満さんに叱られそうな、ぼやけたことを書いているが、なぜこの辺りがストレートにはいっていないのかについては、次の章で論義されている。 以上p24迄