4、慈悲の実践

社会をつくる仏教―エンゲイジド・ブッディズム

真宗の社会倫理は、綱領的に、あるいはスローガン的に表現されるものではない。」と、確認した上で、阿満さんは「実行」の一例として、高木顕明の生涯と思想を挙げる。

もし、他力の信心に生きるものの社会倫理に共通性があるとすれば、阿弥陀仏の慈悲にかなうかどうか、という一点であろう。顕明は、その慈悲の実践において純粋であった。

具体的には「平等の慈悲」に支えられた、「向上進歩」と「共同生活」の実現を目指す運動であった。(略)向上進歩とは、徹底した非戦論に基づく平和の実現であり、社会的差別と蔑視の否定である。共同生活とは、生存競争から解放された生活であり、そこでは、労働は自らの生活を維持するための生産にのみ捧げられ、道のための修養がなんの気遣いもなく実現される。

慈悲は、近代にあっては、単に個人的な徳目ではなく、制度や法律の中にそれが貫徹してはじめて首尾一貫するのである。個人が慈悲深くあることができるかどうかは、人と状況による。信心を得ても、慈悲深くなる人もいれば、いぜんとして邪険な人もいる。それはまさしく「業縁」のなさしめるところであろう。しかし、近代という時代は、制度や法律によって人々の暮らしが大きく変わる。慈悲もまた、個人的徳目の域を超えて、社会を大きく動かす力とならなければならないだろう。


 これまでの真宗門徒の歴史とは違って、近代・現代の我々は社会倫理を変革し、創造していく可能性を持っているという前提から、社会制度に対する慈悲の実践を、阿満さんは説いている。慈悲は弥陀の行であり、凡夫の分限ではないという法話を多く聞き、それがしみ込んでいるからだろう、なかなかすんなりとは、この説にうなずくことはできない。しかし、親鸞聖人が、もしこの時代に生きていたら、どう話し、どう行動されただろうか? 中世と同じことをおっしゃるのだろうか?
 経・論・釈を教条的に守っていくのではなく、かつて大乗仏教がそうであったように、七高僧親鸞がそうであったように、自らの時代に経典を読み解いていかれた試みもた、真宗門徒は受け継ぐべきではないか。阿満さんは後にこのことを、現代の真宗門徒は、自分の手で、自らの時代の化身土巻を書かなければならないと、表現する。

 高木顕明のこうした現実と正対する姿勢は、すでに親鸞聖人のなかにみられるのです。親鸞の『教行信証』という書物には、最後に「方便化身土巻」という一章が付いている。その「方便化身土巻」のなかで親鸞は何を問題にしていたのかというと、最も非真宗的な、最も非本願的な精神のあり方が分析される。同時に、親鸞が生きている時代がどういう時代であるかということについて、『末法灯明記』というような当時の歴史思想を全文引用しながら、自分がどういう歴史的な立場にあるのかといったことを縷々述べている。更に、朝廷を中心とする当時の日本社会にどういう思想が流行しているのか、その流行思想の内容の分析をしているわけです。それらは一言でいえば、、親鸞という人物が生きていた現代社会の諸相です。現実の日本社会がどういう仕組みで成り立っているのかということを分析しているわけです。(略)
 真宗という宗教は単に信仰をよろこぶ、本願念仏をよろこぶというだけの宗教ではなくて、その本願念仏が生きてはたらく社会がどういう社会であるのかということを認識せずにはすまないような構造になっている。もっといえば、現実の社会と向き合うなかで、信心が鍛えられる。そういう構造を持っている宗教です。

化身土巻の読み方については、藤場俊基さんから学び、阿満さんとは違う意見を私は持っている。方便の願の大切さとか、法難との関わりとか。しかし、化身土巻は、現実社会との接点である、ということについては、同意見。 p61迄