紅一点論―アニメ・特撮・伝記のヒロイン像

紅一点論―アニメ・特撮・伝記のヒロイン像 (ちくま文庫)

紅一点論―アニメ・特撮・伝記のヒロイン像 (ちくま文庫)

 ガンダム以前というか、ほとんどのアニメが「紅一点」の時代の評論については、いつもの通り「アニメに対する愛がない」と、苦々しく読んでいた。それが、エヴァンゲリオン映画版が

 こういう象徴的な話をアニメ絵でやられると、トホホ感が先立って「聖なる母」のイメージも台なしだ。母性なんてものは、このくらい安っぽく相対化された方がいい。

と罵倒されたあたりから、壷にはまってしまった。著者が資料としてあげている本の中で、セーラームーンをそのまんま「母性」で論じていた自分が、恥ずかしくてたまらんです。
 宮崎アニメ批判もすごい。これまでの多くの評論が、宮崎アニメは反文明、女性原理を提起していると読んできた。その捉え方自体を、ばっさり切る。

 ならば、「女の子の国」は人類を救えるのか、ラナやナウシカが、魔法を最後のよりどころにしていたことを思えば、そうはいかないことは明白である。だが、ラナやナウシカの棲むエコロジーな国は、人々の安易な願望を体現している。近代(男性性)が救えなかった世界は、反近代(女性性)によって救われるのではないか、という勘違いである。ラナ→ナウシカ→サンというラインは「自然と共生する少女」への期待感を示している。が、それを追求しても最後は野獣=原始の姿に戻るしかない。近代を直視していない反近代は、前近代と同じだからだ。

 宮崎作品はエコロジーの提案から文明と反文明のせめぎあいへとテーマは移行してきているから、著者の批判が全部あたっているとはとは思わないが、二元論の枠組みを綺麗に批判できるフェミニズムはやっぱりすごいと思った。かなり洗脳された気がしている。


追記 以下の部分も大事だと思うので、メモしておく。

エボシひきいるタタラ場の論理が破錠しているのは、女がなぜ生産労働や軍事の現場から排除されていったか、という歴史を学んでいないことである。なぜか。答えはきわめて簡単である。妊娠・出産・授乳といった女性の再生産労働が、生産労働の現場ではハンディと考えられてきたからである。(その意味では「男の国」の紅の戦士が二十歳前後の若い女であったのも当然だったといえるのだ)。子どもと年寄りがいない文字どおりの「男の国」であるタタラ場は、男女平等社会どころか、悪しき近代社会のカリカチュアである。