「特攻」と日本人

「特攻」と日本人 (講談社現代新書)

「特攻」と日本人 (講談社現代新書)

 しばらく「つんどく」してあった本。
 手をつけたら一気に最後まで読み終えたけれど、どういう書評をしたらいいのか、やはり当惑している。
 先人たちを、英雄とするか、犠牲者とするか、犬死とするか。それはこの本にもあるように、生者が死者を裁くような不遜な行為なのだが、議論が対立するなかで、それなりに態度を決めなくてはいけなくなっていると思う。しかし、考えるための何かが、知識なのか体験なのかは分からないが、今の私には決定的に欠けているのだと思った。
 それでも、特攻作戦で死んで行った人々の手紙を、泣きながら読んではいけない。涙をこらえて彼らの時代を思わなくてはならないという姿勢は、なるほどと思った。
 この本で初めて知ったことも多かった。「特攻」に反対し譲らなかった美濃部正少佐のこと。「特攻」を純粋なナショナリズムだと賞賛する海外の評価もあること。その一方で、「特攻」が日本人に対する偏見と憎悪を生み出す世論誘導にも使われたことなど。
 保阪さんのあとがきの一部を写す。この言葉には共感する。そして、とりあえず、コメントを、擱くことにする。

 これはわたしの持論なのだが、あの戦争はある時期から軍事の次元を越えて美学の領域に入った。あるいはカタルシスの世界へ入った。政治・軍事指導者はひらすら日本国民を幽閉状態にしておき、思考も感性も、そしてその発想も「一億玉砕」とか「一億一心」「本土決戦」という語に収斂しようとした。美学に入ったという意味をわかりやすくいうならば、すべて自分の考えで決まるのであり、客観的事実など存在しないという次元に落ちこんでしまったということだ。近代日本にあって、昭和十年代ほど指導部に列した政治家や軍人のレベルが下がったことはない。なにしろ哲学や思想がまったくなかったといっていいからだ。特攻世代はまさに近代日本の指導者たちの犠牲者だ。
 こういうシステムを二度と日本に生んではいけない。その思いをこめて本書をまとめることになった。国民一人一人が自立することがなにより大切だと改めて自覚しておきたいと思う。