右翼と左翼

右翼と左翼 (幻冬舎新書)

右翼と左翼 (幻冬舎新書)

 浅羽通明氏の本は、アナーキズム―名著でたどる日本思想入門 (ちくま新書)ナショナリズム―名著でたどる日本思想入門 (ちくま新書)と読んできた。諸思想が陳列され、対極にあると思われるものに意外な接点があること、サブカルチャーなどにも触れられていて、なかなかおもしろい本だった。
 こちらの本は大学の講義のように、先の二冊の内容を時系列で並べ、整理している。 右翼、左翼といわれる諸思想の起源をフランス革命の議会に見定めて、世界史、日本史、そして現代の政治、思想、文化の状況を理論整然と分析。なかなかあざやかなもんだった。
 「右」を推し進めれば徴兵制をしいて有事に私たちが血を流すことを覚悟しなければならない。「左」を推し進めれば他国に占領される可能性を覚悟しなければならない。アメリカの核の傘を利用した吉田ドクトリンは両者の妥協の産物であるが、本当にそれを払いのけることはできるだろうか。「右」「左」のどちらかを選ぶ根拠を示せるような思想はありうるだろうかと両陣営を批判。
 わたくしなんぞはやっぱり浮世離れしているところがあるわけで、政治・外交に疎いというか、遠ざけるところがあった。だから現実把握ができずに理想に走ることがあるなぁと、反省させられた。
 最終的に現在はどういうことになっているかというと、右翼も左翼も何度も挫折を繰り返し、自己欺瞞を露呈していくことによって、理想を説く力を失ってしまった、もう、「生きる意味をあたえてくれない」ということだ。

 結局、「左翼」は、今ここにある抑圧や差別、「右翼」はそんな「左翼」の台頭という「敵」と対決して燃えるところに、自らの正しさ、意味を見出してきたのです。これは、その「敵」があるから自らの存在も生まれるという、「敵」依存の生き方ではないでしょうか。
 敵を前提として、その敵と戦っている自分たちを正義とする「左」「左翼」、「右」「右翼」の思想のどちらも、その「敵」に打ち勝って、平和が実現した後、何が世の中を統べる正義なのかを示すのが困難です。それらは各個人の「心の問題」とされてしまいます。翻っていえば、個人が心を決めかねた際、答えてくれない。生きる意味を教えてくれないわけです。
 それでは、この限界を超える社会思想は、ありえるでしょうか。

 この最後の最後に、「心の問題」ということで、驚いたことに著者は宗教を持ち出してくる。ここで「あれっ」と思った。
 わたしも僧侶の端くれだから、宗教の可能性が説かれることを歓迎するのが筋なんだろうが、突然「安心立命」なんて言葉まで出てくるし、なんだかヘンだ。「生きる意味」ってのは「死ぬ意味」の裏返しだし。
 著者がここまで巧みに思想を鳥瞰することができるのは、やはり純潔であろうとしているからと想像する。世俗を見下ろし、凡人を嫌う眼。「妥協」とか「矛盾」とかいうことも含めて人間の愚かな部分を認めないと、コケ下ろしてきた右左の人々と同列になっちゃうよと、ただのおじさんは思ったことだった。