ハンセン病はいま 134

孤独の闇から響きあう世界へ

−富山教区・富山別院蓮如上人御遠忌・宗祖御遠忌お待ち受け法要記念行事・「ハンセン病に学ぶつどい」報告−

 五月二十三日から三日間、富山教区・富山別院蓮如上人御遠忌法要並びに宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌お待ち受け法要が「差異 つながり・・・そして いのち −孤独の闇から開かれた世界へ−」のテーマの下に、様々な讃仰行事をともなって盛大に催された。そのなかで教区解放運動推進協議会とハンセン懇第二連絡会の共催として実現した讃仰行事が「ハンセン病に学ぶつどい」であった。

開催までの歩み
 当初から金泰九氏(長島愛生園入所者)を講師に依頼することは決まっていた。金さんは二〇〇二年に「ハンセン病訴訟勝訴一周年記念シンポジウム」(主催・ハンセン病問題ふるさとネットワーク富山)にパネリストとして参加されていた。入所者の里帰りあるいは社会復帰について、回復者であることを隠すことなく、多くの人々と連帯して生きることが本当の社会復帰であるという言葉が、聴衆の共感を呼んだ。あれから六年。ハンセン病問題をめぐって様々な出来事があったが、金さんは今の状況をどのように思っておられるのかをお聞きしたかった。
 そして、富山出身のMさんにもお話をしていただけないかという声が上がった。『真宗』二〇〇六年九月号収録の「ハンセン病はいま 一〇九」の手記を書かれた方だ。富山のような療養所から離れている地域では、若い世代には療養所の存在はおろか、ハンセン病自体あまり知られていない。一方、隔離政策による誤った教化を受けた世代の偏見を正すことが急務である。同郷の方から富山の課題を、富山別院で話してもらいたかった。
 大伴修一氏(富山教区)、大屋徳夫氏(解放運動推進本部員)とともに私は、二〇〇七年七月三〇日に長島愛生園を訪れた。金さんには快諾していただけたが、Mさんには断られてしまった。「世間から差別を受けてきた家族に、これ以上迷惑を掛けたくない」と言われた。富山では回復者に対する偏見はなくなっていないから、自分が話せば再び家族が差別を受けるのではないか、という不安をお持ちになっていた。二〇〇七年一二月一三日に親交の深い中杉隆法氏(山陽教区 ハンセン懇委員)とともに再びご自宅を訪ね、プライバシーを守るため、声だけの講演も提案してみた。しかし、やはり断られてしまった。
 Mさんと交渉していることについては、批判的な意見も聞いた。例えば、自己表明を「ゴール」と思い込んでいるのではないか。一人ひとり、それぞれの現状を尊重すべきではないか、と。もしかしたら私は、Mさんに身勝手な価値観を押し付けているだけではないのかと悩んだ。

ハンセン病に学ぶつどい」
 二〇〇八年四月十八日 修復された富山別院本堂を会場にして六十余名の参加者が集まった。まず、金泰九氏が講演、御自分の半生とハンセン病についての正しい医学的知識について話された。引き続き、韓国のハンセン病についてのビデオを上映し、パネルディスカッションを行った。パネリストは金泰九氏、大屋徳夫氏、青井和成氏(高岡教区 ハンセン懇委員)。司会を私がつとめ、質疑応答を交えながら、前半は韓国でのハンセン病問題ついて話し合った。ソロクトと大谷派僧侶との交流、補償金の認定がすすまない現状などが報告された。
 後半は富山の里帰り問題について話し合った。プライバシーに配慮しつつ、Mさんの現状と、これまでの交流について報告した。
金:「「らい予防法」が廃止され、国家賠償請求訴訟も勝訴した。私たちも意識を変えなくてはいけないのではないか。ハンセン病患者であったが今は治っていることを、自分も家族も堂々と言える社会。それを隠していたのではいつまでたっても偏見差別はなくならない。私の希望だけれども、Mさんは家族に一緒に啓発をするよう、相談をされたらどうだろうか。自分が変わらなければ、自己を解放しなければ社会が変わらない。」
大屋:「どうすれば安心して帰れるような状況を作れるのだろうか。療養所に近所の方が入所されていて、ずっと私を避けておられたが、ある日、初めて自ら声を掛けてくださった。次に会った時にじっくりと話をすることを約束したが、その前に亡くなられてしまった。急がねばならない。帰りたいという気持ちは強いが我慢しておられると思う。五五年ぶりに親子の名乗りをされたり、五〇年ぶりに両親の墓参りに帰られたケースもある。「なんでこんなことに五〇年もかかったのだろう」と言われた。そして、わたしたちも動かなければ、なにも変わらない。」
青井:「富山で当たり前のように、酒を酌み交わしたい。大げさなことではなくても、長島でやっていることを富山でもやりたい。」
 パネリストの提言を聞き、参加者と質疑応答するなかで、ハンセン病問題を具体的な隣人の問題として共有できたように思う。

再び長島へ
 五月十二日、多磨全生園で開催されたハンセン病市民学会にて、家族部会に参加した。ある意味、療養所で「仲間」とともにいられた入所者とは違い、地域で孤立し、差別、偏見にさらされた家族の方々の話に衝撃を受けた。
 六月二十一日には勝訴七周年記念シンポジウムを富山市民プラザにて開催。「新・あつい壁」上映の後、宮里良子さん(れんげ草の会〔ハンセン病遺族・家族の会〕副会長)が、偏見と差別のただなかで、自らを偽ってしか生きられなかった苦難を語られた。なぜ病気になったのかと親を恨んでいるという人もいるが、宮里さんは自分の経験を語るのは両親が与えてくれた使命であり、今は感謝していると話された。
 七月八日、青井和成氏からの誘いがあり、宮地修氏(高岡教区)とともに、私は再び長島愛生園を訪れた。さっそく、Mさんのお宅にご挨拶に訪れたところ、お刺身にビールで歓待していただき感激!集いの報告など、話が弾んだ。
 翌日は自ら園内を案内してくださった。収容桟橋。Mさんは 上陸した時の日付、時間、天候を明確に覚えていた。回春寮(入所の時にまず入れられる収容所)のなかにある「消毒風呂」。クレゾールの嫌な臭いが忘れられないとおっしゃっていた。入所時にMさんも園名を使ってみた事があるが、その名で母に手紙を書いたところ「縁が切れてしまうようだ」と言われてやめたそうだ。納骨堂。最近は、故郷にお骨を納められるケースが増えているとおっしゃっていた。それはそれで素晴らしいことだが、Mさんが自由に故郷に帰れるようになることを願わずにはいられない。再会を約束し、長島を後にした。
 見えない壁の厚さを実感した一年だった。しかし、このままでは終われない。

(『真宗』2008年10月号掲載)