中島義道「哲学の道場」

「悪について」がかなりおもしろかったので、読んでみました。終盤に「哲学書の読み方の修行」というところがありまして、カント「純粋理性批判」が取り上げられています。さっぱりでした。中島さんが読み解いている部分は、なんとか理解できていると思うのですが、哲学書の文章自体には全くついていけません。かなーり辛いことですが、私には才能なかったのだと、いまになって、はっきりと、分かりました。

「読み方の修行」で取り上げられているのは、カントの「誤謬推理」批判、すなわち「私」と呼ばれるものは、なんら実体のないものであるという論証から、死後の魂の存続を証明することはできないということを論証していく部分です。ここに、私にとって、興味深い展開がありました。

 こうして、さしあたり(認識論のレベルでは)死後の魂の存続を証明することはできなくなりました。それで終りかというと、そうではないところがカントの「ふところの深さ」です。最後にドンデン返しがおこなわれるのです。われわれが死後の魂の存続を証明できないにしても、それを要請することは完全に認めるのですから。そして死後の魂の存続は、証明によるよりも要請による方がはるかにリアルであるというのですから。(中略)
 実践理性によって各人は道徳的完成に至ることが必然的に要求されている。だが、誰もこの世では道徳的完成に至りえないから、死後もなお道徳的完成を目指すために存続するのでなければならない。しかも、それには無限の時間が必要である。だから、死後も霊魂が無限に存続することが要請される、というのです。
 だが、私にはカントのこの考えが、実感的にピンとこない。単なるおとぎ話のような気がしてしまうのです。・・・

実践論としての宗教の出発点が述べられていると、私にはピンときました。
認識論において魂には実体がないことが証明されても、死後は不可知でありつづけます(中島さんは「無」と書いています)。だから死後は「要請」されてもよい。あるいは、不可知なる死に対して怯えて生きるよりも、カントは「道徳的完成を目指すために」生きる方がよりよいということも考えたのではないでしょうか。だって中島さん自身が「悪について」でこう書いていたじゃないですか。

根本悪のもとにあるからこそ、われわれは道徳的でありえるのだ。根本悪の絶大なる引力を知っているからこそ、われわれは最高善を求めるのだ。われわれには絶対的に「正しい」解答が与えられないと知っているからこそ、それを求めつづけるのである。

仏教では、死後の世界の不可知を認めつつ、浄土という世界を要請する、仮設するという試みがこれにあたります。龍樹(ナーガールジュナ)は認識論、実体論で霊魂の存続は不可知と証明したうえで、実践論で浄土往生を説いているのです。ただ念仏を称えることによってだれもが往ける浄土という世界を仮設し、そこに帰依していくことが、よりよい人生をおくることになるのだと、法然親鸞浄土教徒たちは考えました。

ということで、哲学徒にはなれなかったけど、実践論ならオレの方がいけてるんじゃないかと、中島さんに言ってみたいですw
哲学の道場 (ちくま新書)