古代仏教をよみなおす 1

古代仏教をよみなおす

古代仏教をよみなおす

 最新の発掘調査などによって、これまで仏教史において定説とされてきた諸問題を検討し、覆していく意欲作。たくさんたくさん示唆をいただいた。注目したいポイントを、いくつか抜き出していこう。

○「新仏教」について

 日本仏教史の時期区分といえば、かつては鎌倉新仏教の成立を大きな画期ととらえる見解が大勢であった。それまでの仏教が貴族や国家のための仏教であったのに対し、これらは民衆をも救済する仏教であると評価され、それまでの仏教を革新する新仏教と位置づけられてきた。ヨーロッパの宗教改革と鎌倉新宗派の成立を類比させる説明が、この見解を支えていた。
 しかし、黒田俊雄氏によって「顕密体制論」が提唱され、鎌倉新仏教論は否定された。鎌倉時代には新仏教はほとんど流布しておらず、旧仏教(顕密仏教)が国家、社会のほぼすべてを覆い尽くしていた。
 筆者は十五世紀後期以降を日本仏教史の第3期、「新仏教の時代」と位置づける。鎌倉、南北朝時代にはまだ小規模な門流にすぎなかった本願寺教団に、蓮如が登場し、親鸞系諸門流を横断的に統合するような大きな団体を形成していった。曹洞宗も同様。(以上抜粋)

 新仏教は、旧仏教とは異なり、荘園に経済基盤を置かない仏教として、荘園制の衰退と歩調を合わせるように発展していった。新仏教は、新たに成立した「家」を単位として、門徒・檀家を経済基盤とする仏教として発展し、いわゆる葬式仏教(葬祭仏教)を通じて民衆社会に広く浸透していった。(p49)
 二十一世紀をむかえた今日、既成仏教宗派は今一歩活力に乏しく、それに代わって創価学会立正佼成会などの仏教系新宗教が教線を伸張している。それらは新宗派の誕生といってもよいくらいの勢力を築き上げ、精力的な活動を推し進めている。私は、これら仏教系新宗教をさらなる日本化した仏教と位置づけることができると考えている。(p47)

○「天皇」号の受容
 「天皇」号は中国の天命思想の君主号であった。しかし日本の王権は天命思想に含まれていた「革命」の思想(天の命がある一つの家から、別の家へと移ることによって王朝は交替する)を除外した。ずるい。

 持統は、自分のことを天から命を受けた存在だとは規定せず、自分は天に在る神の子孫であり、天の最高神の血筋を引く存在なのだと主張した。(p65)

 (「古事記」「日本書紀」)は過去の出来事を事実に立脚して公正に記述しようとするような性格の書物ではなかった。それは自らの王権の正当性を、あらゆる論理、表現を用いて叙述しようとする書物として作成された。(略)もちろん、天皇家が天の最高神の子孫であるとか、神武から持統まで血筋が続いているなどというのは事実に基づく記述ではなく、政治的に創案された創作神話、創作史話にほかならない。新生日本国の政府は、中国の政治制度を導入するにあたって、天命思想の部分を読みかえ、代わりにこうした神話や史話を創作して、皇統の将来にわたっての連続を宣言したのである。(p66)

聖徳太子の実像
 十七条憲法三経義疏など、「聖徳太子」の業績とされてきたものは、ほとんど史的事実ではないという研究が大勢を占めている。浄土真宗は太子を「和国の教主」と位置づけ、太子信仰を支えてきた。先の鎌倉新仏教の過大評価と同様、仏教史研究における真宗信仰の影響を考えさせられる。飛躍するが、戦後左翼思想が欧米の価値観を過剰に重視した、イデオロギー偏重の傾向を諸学問体系に取らせていたのと似ているか。
 筆者は改めて聖徳太子信仰の問題の重要性を説く。

 かりに聖徳太子が創作された人物であったとしても、そうした聖徳太子のことを、日本人たちは愛し、尊敬し、さらに信仰してきた。では、日本人は聖徳太子に何を求め、何を投影してきたのか。聖徳太子は本体がほとんどなく、長大な尾ひればかりがついているような存在だと私は思う。それは最初からそうであったのだが、その尾ひれは、時代を追うごとにますます巨大化、肥大化をとげていった。聖徳太子研究とは、むしろこの巨大な尾ひれの姿かたちやその成長のありさまを明らかにし、さらにその意味を研究することかもしれないと最近の私は考えている。(p95)

 親鸞は中国経由の経典を「本物の仏教」と捉え(それしか知らなかったからね)、それに大きな尾ひれをつけた。筆者の言い方を真似れば、真宗を学ぶ事は、その親鸞がつけた尾ひれに先人たちはなぜ共鳴し、信仰したのかを学ぶことであるとも言えるかな。
 
○霊異神験の思想

 奇蹟や呪術をもって民衆を教化した八世紀の僧、行基。彼についての史料と中国の文献などを対比して、筆者は以下のように分析。

 こうした霊異神験の思想は、(略)日本の固有信仰と外来の仏教信仰とが、習合ないし混交して日本列島で成立したものと見ることはできない。それは、北インド大乗仏教や、西域及び中国の仏教において、すでに成立、展開していた思想であり、のち、中国において、さらに独自に成長をとげていった思想であった。仏教思想の一類型というべきものなのである。もとより、仏教伝来以前の日本列島にも、超自然的な神秘に対する尊崇の心情は存在したであろうが、それは、仏教的な霊異神験の思想とは様相、性質の異なるものであったとすべきである。道慈が受容、導入し、また行基が人々に示したという霊異神験は、仏教的な霊異神験なのであって、それは当時の日本において最先端の宗教であったとしなくてはならない。

 その後の密教の隆盛、そして現代日本でも霊異神験、細木、江原、カリスマ信仰は根強い。インド映画に超人みたいなのがよく出てくるのも関連ありだな(笑

神仏習合外来説
 日本独自の文化とされてきた神仏習合も世界的にそう珍しいものではなく、在来の神々と仏教の習合も、すでに中国において展開されていた。
 ふと、教行信証化身土巻に出てくる神々が釈尊に屈服し帰依するみたいな話は、神々が自らの罪業を仏に救ってもらうという本地垂迹に似ていると、改めて思った。化身土をそのように読む解釈はなかったのかな。存覚の「諸神本懐集」みたいな流れ。
 そして、この本を読むと、神道のほとんどの教義が中国仏教を導入したところから出発したということのようだ。天皇制、「古事記」「日本書紀」も中国のマネ。ならば遡れば靖国神社だって中国仏教の鬼子みたいなもんなんだから、文献などで裏付けして、靖国の根源は中国でしたと正直に宣言すれば、外交問題も解決したりして。ああ、暴走してしまった。。。