古代仏教をよみなおす 2

古代仏教をよみなおす

古代仏教をよみなおす

 筆者が一貫して主張しているのは、いわゆる民衆仏教というのは鎌倉時代から始まったのではなく、仏教が伝来してすぐに地方豪族たちがそれを信仰し、かなりの広がりがすでにあったということである。
 これはまぁ、その通りなんで、室町期に本願寺教団が強大になったのは、天台真言の念仏系修験道(玉永寺も真言宗から転派したらしい)が流入したし、あるいは法然浄土宗の諸門流、親鸞弟子教団、時宗系からの流入にしても平安以前からの基盤があったんで、「念仏」の歴史というのはかなり古く、深いものだと認識しなくてはならないということだ。

 そして、この本の第三章は「古代の女性と仏教」と銘打たれている。

○五障と変成男子

 わたしの考えでは、原始仏教、部派仏教の経典と大乗仏教の経典とでは、どうも差別のあり方、その質が異なるように思います。前者は単純に女性を忌避するという記述になっています。戒律を守り、欲望を滅ぼさなくてはならない修行者たちにとって、女性は修行のさまたげとなるから避けるのがよいという思想です。これももちろん男性中心主義の思想です。
 ところが、後者の大乗経典の方は、これと違ってもう少し複雑というか、巧妙な理屈を説きます。それでは、はじめに女性を差別し、女は劣っている、救われない、という話をします。しかし、その次に、わたしの教団のみはそんな女でも見捨てずに特別に救済するのだというように話が展開して行きます。そうした経典の代表は、『法華経』と阿弥陀系の経典です。(略)ただ成仏するときに、女性は変身して男性になります。これを「変成男子」といいます。阿弥陀系の『大無量寿経』にも、女性は女身のままでは往生しない(男性に変じる)という、ほぼ同様の教えが見られます。これらは、やはり差別の思想と言わなくてはなりません。
 (略)そこで説かれた教えは、差別と救済が一体となった構造の思想だと私は思います。つまり大乗仏教は女性を忌避して遠ざけたのではなく、女性を劣った存在だとし、その上で自分の教団はそんな女性も歓迎しますよ、と誘って布教したのです。(略)これを考えるなら、新仏教が女性を差別していないだとか、はじめて女性を救済したとは言えないように思えます。(p168)

○女性の地位の低下
 この問題を筆者は「日本国」が徐々に整備されていく過程に於いて、政治が男性中心となっていく流れに沿っていると考える。

奈良時代末から平安初期になると、ようやく国家の基本的な仕組み(国制)が確立し、天皇の姿も、こういうものだという形が定まってきました。薬子の変(810)の後の嵯峨天皇の時代が一つの画期となったと思います。その百年の間に、女帝は姿を消しました。その間、官度の尼が挙行に参加する中央の法会がしだいになくなり、尼の数が減少していきました。それでも、八世紀前期は尼もそれなりに活躍しましたし、光明皇后によって国分尼寺が尼たちの一つの基盤を形成しました。しかし、持統皇統が称徳孝謙天皇で終わると、官度の尼の衰退は顕著となっていきました。官度の尼には、女官と同様、限られた役割しか期待されず、人数もあまり必要なかったのです。官度の尼の衰退や地位の低下は、国家は男性が運営するという思想によると私は考えます。(p183)

 ここは面白いのですが、この後の「女人禁制をどう理解するか」についての論証は、内容に一貫性がないような気がするので省略。
 
 最古の仏教説話集「日本霊異記」は女性を蔑視していないことを証明して、この本は結ばれる。
 古代仏教の実像に関する本だが、現代真宗教学の抱える課題を整理することにも使えた。あっぱれ。