「戦間期」の思想家たち レヴィ=ストロース・ブルトン・バタイユ

 私が学生の頃は浅田彰が現代フランス哲学(?)を流行りにした時代で、すこしは読んだのですが、さっぱり歯が立ちませんでした。ですからこの本を読んでも、半分ぐらいの登場人物は知らない。途中でなにがなんだか分からなくなるのですが、それでも最後まで読み通してしまったのは、思想家たちのエピソードの部分に魅かれたからでした。
 まぁ、この本を読むと、浅田のフランス哲学の紹介の仕方というのは、どういう現実に直面して思想が生まれていたのかという視点があまりなかったのだなということが分かります。
 若き日のシモーヌ・ヴェイユボーヴォワールの決別のエピソード。

中国の大飢饉が問題になっていた頃、ヴェイユと話す機会を持ったボーヴォワールは、ヴェイユが、今日地上で大事な唯一のことは、すべての人々に食事を与えられる革命だと言い切ったことに反論した。彼女は、問題なのは、人々を幸福にすることではなく、人々が存在する意味を見つけることだ、と述べたのだ。すると、ヴェイユは、ボーヴォワールをじろっとにらみつけて「あなたが一度もおなかを空かせたことがないというのがよくわかるわ」と言ったのである。
「私たちの関係はそこで終わった。彼女が私に『観念論のプチブル娘』のレッテルを貼ったことがわかって、かつてリット嬢が私の好みを幼稚症だと決めつけたときと同様にいらいらした。」

二人の思想の性格が、とてもよく出ています。

 ヴェイユバタイユの関係も面白い。ヴェイユバタイユの考え方を以下のように批判します。

革命とは、彼にとっては、非合理的なものの勝利なのですが、私にとっては、それは合理的なものの勝利のことなのです。また彼にとっては破錠=破局(カタストロフ)なのですが、私にとっては大きな被害を食い止めるべき方法的行動なのです。さらに革命とは彼にとっては本能の解放、とりわけ普通は病理的だとみなされている本能の解放なのですが、私にとって、革命は高度の道徳性の問題なのです。どこに共通なものがあるでしょうか?

 このように述べておりながら、二人は頻繁に合っていたというのです。

むろん恋愛関係ではない。この男女は、出会うと、お互いの感じていること、苦しんでいること、政治情勢などを熱中して語り合っていたようなのだ。一見、水と油のようにみえる彼らは、いかなる絆で結ばれていたのだろうか。

 著者は、「ヴェイユバタイユのカウンセラーのような存在だったと思える。」としています。なんとなく、二人の関係が思い浮かびます。

 もう一つ、ブルトンの作品「ナジャ」が実話であったというエピソードです。というか、私はこの作品を読んだことがないのですが、紹介されたあらすじが印象に残りました。

 そこで、ナジャが午後七時ころ地下鉄の中で仕事を終えたばかりの人々が、今日のことや明日のことをいろいろ考えている姿を見るのが好きだと語る。「いいひとたちなんです」。
 するとブルトンは、突然腹を立てて、演説をぶち始めるのだ。
 そうした勤労者たちが、外に不幸があろうがなかろうが、自分たちの仕事をそのまま黙って引き受けているかぎり、関心を持たれる存在などはなれないのだ。労働への隷従には誰も疑問を抱かないが、ぼくはこの隷従が大嫌いだ。労働への隷従を強制され逃れられないひとを気の毒だとおもうが、ぼくがその味方をするとすれば、その重労働の過酷さを気の毒にと思ってではなく、その過酷さに対する抗議運動の激しさのためなんだ。

 このあと、ナジャは貧しさのなかで精神を病み、死んでいきます。ブルトンは彼女を救えなかったことに絶望します。
 この時代の労働運動の空気を感じると共に、理想と現実の狭間といったテーマは永遠だな、と思いました。