ハンセン病と戦後民主主義―なぜ隔離は強化されたのか

ハンセン病と戦後民主主義―なぜ隔離は強化されたのか

ハンセン病と戦後民主主義―なぜ隔離は強化されたのか

 プロミンという特効薬が発見され、民主主義の時代になっても、強制断種、強制堕胎、強制隔離が改められず、むしろ強化されたのはなぜかという疑問に答える書。

 第一章、第二章では、戦後も絶対隔離政策推進の中心にあった光田健輔の医療観(?)を、新しく発見された史料を交えながら分析している。

  1. 光田は戦後も胎盤感染、精子感染の可能性に固執していた。(本書には書かれていないが、自らの学説を証明するために夥しい胎児標本を作製したのではないかという推論がある。)
  2. 光田はハンセン病の解明のためとして、被差別部落の実態調査を行っていた。ハンセン病を遺伝病とみなす、差別感情をともなう俗説から抜け切れていなかった。
  3. 「らい予防法」継続・強化のために、朝鮮戦争により韓国・朝鮮から患者が流入するという、民族差別感情に基づく扇動をも行っていた。

 (以上、三点のまとめ方に問題があれば、ご指摘ください)

 第三章では「らい予防法」が成立した経過を明らかにしている。そこで浮き上がってくるのが、日本国憲法に出てくる「公共の福祉」という言葉である。被差別者、少数者の人権を無視することを正当化するキーワードとして、これまで多くの裁判で利用されてきた。有事法制の整備においても多用され、昨年の教育基本法改正では「公共の精神」を、強調して盛り込んでいることである。

 さて、戦前、戦後をとおして「「らい予防法」を維持させた社会的背景」は「救らい思想」であったと、藤野氏は指摘される。「救らい思想」については徳田靖之弁護士の説明が分かりやすい。

 私が裁判の中で明らかになった事実から感じたのは、気の毒な人たちを救うという考え方の中にひそんでいる重大な差別性です。
 救うという考え方は、救う側と救われる側という二つの立場が全く相互に入れ代わることがない、隔絶した立場が前提となっているわけです。長島愛生園で勤務をされた小川正子医師が書かれた手記等をお読みになれば、それがすごく純粋な形で私たちに理解されます。
 一所懸命になって救おうとする意識には、救う側にいる人間がすることは当然正しいという認識がある。それが救われる側にいるとみなされている人たちに何を感じさせ、何をもたらすのかを受け取ることを強烈に阻みます。その上に万が一間違いを犯しても、そのあやまちに気づくことを決定的に遅らせてしまいます。
 ハンセン病隔離政策のなかで療養所における医師、看護師、あるいは職員の方たちが犯した過ち、その根源のひとつに、私は「救う」という意識があるのではないかという感じがしているのです。そしてそれは宗教者や、私たち弁護士にも共通していると私には思えてならないわけです。

 「救らい思想」はどのように、人々の中に浸透して行ったか。藤野氏は以下のように説明する。

「救らい思想」は感謝の強要により、隔離されたひとびと自身から、隔離を人権侵害として自覚する精神を奪い取った。そして、隔離されたなかで患者の医療や福祉を充実させればよいという世論をも形成させていった。隔離されたなかで国家は患者によりよき療養を保障し、患者もそれに感謝して日々を送る、そのような強制労働、強制断種、強制堕胎をともなう実態からは大きく隔絶した療養所像、患者像が定着し、国民の多くは、それに疑いをもつこともなかった。そしてそうした虚像を信じることにより、あえて、隔離政策の実態を知ろうとはしなかった。

 1953年の「らい予防法」改正をめぐるたたかいのなかで、全患協の抗議デモが国会へ向かったとき同じ立場であったはずの左右社会党がこれを厳しく排撃した理由。2003年、熊本県のホテルによる回復者宿泊拒否事件への抗議行動が、手紙や電話で陰湿なバッシングにさらされた理由。それが戦後を貫く「救らい思想」であるというわけである。