つくられる日本国民ー国籍・戦争・差別

発行 大阪人権博物館

○なぜ「つくられる日本国民」なのか 文公輝

 日本国憲法は前文で「主権が国民に存することを宣言」し、第三章で「国民の権利及び義務」を定めている。しかし、その国民主権憲法や諸法が、日本国籍を持たない外国籍者の権利を制限し差別的に処遇する根拠ともなっている。

 例えば外国籍住民の二重国籍の権利を日本国は認めない。その背景にある「国民」概念が、この本のテーマとなっている。

○民衆が〈国民〉になるとき 牧原憲夫
 明治政府が近代国家形成のために、徴兵令や自由経済を推進しつつ、その上で民衆に「国民」意識を持たせようとしたことは、とても難しいことであった。
 国に対する客分意識や反政府的感情が根強かった時期に「国民」意識を浸透させたのは、皮肉なことに自由民権運動であった。
 大阪事件、甲申事変、日清・日露戦争を経て、「われわれ」が被害を受けた、殺されたという感覚が、「国民」をさらに浸透させていくことになった。

○「自己植民地化」としての国民化 小森陽一

 「自己植民地化」とは、条約改正を進めるために欧米列強の論理を必死で内面化し、欧米列強の強制に従属しながら、国内の制度・文化・生活習慣、何よりも一人ひとりの民衆の意識や身体までをも、欧米列強を模倣・擬態しながら、自発性を装いつつ自己を他者化していく過程のことを言う。

 これは実に面白いキーワードだ。
 いわゆる「欧米か!」。自虐の色濃いツッコミの内実が、うまく文章化されている。
 これからは「自己植民地か!」。。。

 幕末の日本は、下手をすれば欧米列強から「未開」「野蛮」と見なされて植民地化されたかもしれないという恐怖に怯えていた。欧米列強は不平等条約を維持するために、日本を「文明」化しているとは認めなかった。そこで日本は周辺を「未開」と「野蛮」と見下し(蝦夷地、朝鮮半島)、植民地化することによって、みずからを「文明」の側に押し出そうとした。(趣意)

 ハンセン病患者に対する、激烈な強制隔離政策も、同じ動機と言えるだろう。

○女性にとっての国民化―国をいかに超えるか 牟田和恵

 この論は、ジェンダー理論が陥っている袋小路を的確に分析している。
 「女性兵士」の問題に対して、「性差別」であるとして自衛隊イラク派兵に参加すべきなのか、この場合には平和主義を持ち出すべきなのか。

 私たちは、そのどちらをも選ぶわけにはいかないのは明白だ。この二者択一を突きつけられ選ばされることこそ、私たちにかけられる「罠」だ。しかし、そうあっても、だから自衛隊派遣に反対する、というだけでは、将来の自衛隊の撤廃をめざす、とするだけでは、この「罠」を突破したことにはならないのだ。「国民国家」にあるかぎり、これは私たちに迫られずにはいない問いなのだ。
 近代国家において「市民権」は、国家に兵役の義務を尽くすことの報酬であったから、女性は常に二流市民の座に甘んじてきた。女性が「国民」たりうるのは、兵士を産み育てる母の役割においてであって、近代の国民国家はもともとこうしたジェンダー差の構造を組み込んでこそ成立した。今日本は公式には軍隊を持たないわけだが、厳然と社会全体に存在し続ける性差別の根の一端はそこにある。
 繰り返すが、平和を追求しなければならないことは言うまでもない。しかしそれでも、国民国家であることが原理的に孕む性差別に目をつぶったままでいることはできない。そしてまた、反軍隊・「平和主義」を掲げることも、ジェンダーの縛りがしばしば抜き難くありがちなことにも私たちは自覚的でなければならない。(略)
 戦時の報国のため、平和運動の「子供たちを戦場にやらない」ため、そして豊かな社会と家庭の確保のためと、目的は変わっても、そこに一貫したものを見いだすのは困難ではない。「平和」の希求ですら、ジェンダーを組み込んだ国家システムをさらに強化するものであったことに、私たちは気づかざるを得ない。

 筆者の考えでは、「国民」である以上、どうあがいても女性(男性も同じなんだが)は国家の為、補完的に消費される存在以上になれないということだ。
 なら、どうする?

 女性や差別される人々が、国民国家においては「二流市民」としてしかありえないことそのものが、私たちに国家を疑うー簡単に越えることはできないにしろーことを可能にするとすれば、まさに私たちこそが、未来の可能性をかいま見ているのではないだろうか。

 これが、結びの言葉。あとは自分で考えろってことか。

以下、「総力戦下・「日本国民」の条件」(成田龍一)、「外登法・入管難民法と在日旧植民地出身者」(文公輝)は省略。