現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護

現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護 (ちくま新書)

現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護 (ちくま新書)

現代日本における貧困の実態が統計学的な手法によって明らかにされていく。
その中で、低学歴、独身や離婚、転職や離職、この3つの要素が重なり合い、貧困を生み出す「装置」として働いていることが明確になる。

低学歴であることは、離転職をくり返さざるを得ない不安定雇用や、資産なし・家族なしという「状況」と直接結びついているし、不安定雇用は未婚のままでいることや離婚と結びついている。さらに、未婚のままでいることや家族との離別は、家族が力を合わせて家計を支えることで貧困を防ぐという営みから遠ざけられることを意味している。現代日本社会ではこれらの「状況」の重なり合いが、「不利な人々」を貧困の中に閉じこめ、社会的な諸関係から排除するような“装置”として機能しているのである。

三つの要素は経済的要素だけではなく、社会的排除の対象としても働いていることに、目を向けなければならない。

そして、生活習慣病、自殺、孤独死、多重債務、児童虐待といった社会問題に「貧困」という要素が大きく関わっていることが説明される。

それにしても、貧困と社会問題との関連性が見過ごされて、「豊かさの病理」や中流家庭の事件ばかりに私たちの目が引き寄せられ、「心の闇」の解明ばかりに注がれるのは、なぜだろうか。貧困と社会問題の関係から目を背けたがるのは、マスメディアや行政だけではない。それぞれの現場で社会問題に取り組む人々の中にも、こうした問題の関連性を認めることに抵抗を覚える人が少なくない。

これは重大な指摘だと思う。われわれ僧侶は「貧困」という問題を、今、どのぐらい認識しているだろうかということだ。
人の尽きない執着欲望を批評し、清貧を讃え、心の貧しさを説くとして、そこに「貧困」という問題に目をつぶらせるような働きがありうると考えたことがあるか? 部落差別問題やハンセン病問題との関わりで見えてきたのは、差別や偏見を助長する働きを果たしてきた教学の問題点だった。それが貧困という問題からも指摘されるのではないか。
釈尊はインドの戦乱と貧困のなかで仏教を開かれた。その意味に、もう一度帰らなくてはならないと、私は思う。