生と権力の哲学 第一章

生と権力の哲学 (ちくま新書)

生と権力の哲学 (ちくま新書)

「権力」とはなにか。このところ、漠然とした問いを抱えていた。
「権」という漢字が示しているように、実体はないし、主体は見当たらないのに、たしかに人を操り、死に至らしめるまでの力が働いている。その正体を知りたいと思っていて、フーコーの思想を解説するこの本に出合った。こうした問題を知るには哲学が有効なのだろう。

第一章 不可視の権力ー生政治学とは何か
 一人の王が絶大な力をもち、多くの弱き民衆を支配する、というのが権力についてのモデルだ。しかしこれは、近代以降の社会を分析するためには有効ではない。フーコーが提示するのは「中心の不在そのものによって際立つような、非人称の監視システム」だ。

パノプティコンとは、イギリスのジュレミー・ベンサムによって考案された。中央に監視塔が置かれ、その周囲に独房が円形状に中心に向かって窓を持つような仕方で配置されている監獄装置のことである。

この装置が「自律訓育型権力」。そのなかでははっきりとした監視者や権力の執行者が見えない。しかし民衆は隅々まで監視され、見られていることを意識させられ、治安と維持が保たれていく。こうした社会では、「正義」「抵抗」という概念が成立しない。

このことは、もはや誰も自らを「正義」の主体とは語りえないということを意味してしまう。たとえ少数者=マイノリティや虐げられてきた者の視点に立つとしても、誰も自らを「正義」の主体として捉え、誰かを無前提に糾弾する権限をもつとはいえなくなる。

権力がネットワークとして作動し、権力側も被権力側もそもそもが不明分なあり方に投げ込まれ、そのなかで発言し行動せざるをえない場面において、こうした抵抗の構図は、もはや自己満足というカタルシスを与えるものでしかない。誰かを敵と断じることは、本当のところ、敵と名指すものに対するルサンチマン以外の何に駆動されているのだろうか。そして実は、こうした革命の高揚感は、「正義」を主張するものに特有の、権力的支配への欲望を露呈させるものではないか。

このあと、二項対立的な考え方の根底にある「主体」という概念自体の検討をして、この章は終わる。

無論この本はフーコーの思想を解説しているのだが、筆者と私が同年代であることを意識する。学生運動の衰退からグローバルシステム社会の出現にいたるまでの同時代を生きてきた。権力を外だけではなく内にも認め、つきつめていくフーコーの「生権力」について学ぼう、という視点に共感している。