生と権力の哲学 第二章

生と権力の哲学 (ちくま新書)

生と権力の哲学 (ちくま新書)

第二章「真理」の系譜学ーフーコーの課題
この章はフーコーの哲学の根底を流れている、「真理」についての世界観が、おもにデリダレヴィナスと対照させて説明されている。
フーコーデリダレヴィナスも「真理」などは存在しないとしている。超越者も認めないから、絶対的権力者もまた認めないという流れになるんだろう。
「真理」の不在を説くならば、ネガティブ、ニヒリズムに堕ちているのではないかということになるが、フーコーは自らを「幸運なポジティビスト」と名乗っている。
そこでデリダレヴィナス的発想というのは以下のようにまとめられている。

現象学を出自とし、「意識」の徹底的な検討から、その透明な「現前」の不可能性を取り出していく、デリダレヴィナス的な発想は、ネガティブであることの極限を徹底させることにより、自らを「他」なるものの肯定の議論へと転化させていく。根拠は何もないということを反転させ、その何もないこと(届き得ないこと)から「他性」という根拠を見出して、相対主義を逃れようとするのである。

デリダレヴィナスユダヤ教との関わりがある。虚仮不実の身であることの徹底から、その身を照らす「他者」なるものを見出していくという発想に、思いっきり手前味噌だが、浄土教の発想となんだか似てるなぁと。
それに対してフーコーはこうだ。

それに対し、認識そのものの成立条件を探るフーコーのエピステモロジーは、確かに最終的な根拠の喪失という状況は認めながらも、そうした「不在」に依拠しつつ、議論を展開することはない。(略)
「不在」が見出されるのは、認識の格子がずれたときに、すでにあった格子の消滅を嘆くだけのことである。そして「真理」の「不在」が強く意識されるのは、そもそもが「真理」を規定するような、根本的な認識の原理が変更されたこと以上でも以下でもない。そこでは「真理」を想定する時代とは、別の時代が現われているのである。それに対して、積極的な姿を与えること、これがフーコーの議論の行き着く先を示している。

「真理」など最初からなかった。ならば「真理」の不在を嘆くこともない。混沌のなかで自分のできうることをやればいい。それだけの話である。
釈尊諸行無常諸法無我と、この世を捉えつつも、そこでニヒリズムに落ちることなく、涅槃寂静とこの世を生き抜こうとしたことを、これまた連想してしまうのだ。
現代の哲学者たちが見出した世界観を、仏教は紀元前から見出していた。そう説くのは、安易かも知れないが、意外とけっこう、たやすい気もする。しかし、われわれ現代の仏教徒たちは、根本的に西洋的発想にどっぷり浸かってしまい、四法印を生きていない。「真理」に執着することに堕ちてしまっている。なのにその自覚がまったくない。
長い長い時間、「真理」と格闘し、論理を尽くした上で、真理不在にしてポジティブに生きる道を見出した現代の哲学者たちの仕事に学ばな、あきまへん。