生と権力の哲学 第六章

生と権力の哲学 (ちくま新書)

生と権力の哲学 (ちくま新書)

第五章はフーコーの思想を受けて、ドゥールーズとアガンベンがどのようにそれを展開したかという内容だが、あまりピンとこなかった。さっぱり理解できない部分もあり。
第六章 帝国とマルチチュード −ネグリの挑戦
ネグリフーコーの思想を以下のように批判する。

しかしフーコーは、そこで「生」という政治の焦点を示しておきながら、その具体的な動きや、「生産」として示されるその内容に光をあててはいない。そこでは、<生政治学>の主役であるはずの、「生命」の「主体」を描くにはいたらないのである。その意味でフーコーは、自らの出発点である、認識論的(エピステモロジー的)議論から抜け出せていない。

 フーコーはこれまでの「主体」、あるいは「人間」とされてきた概念を否定してしまった。それは恐ろしいことだ。主体がなければ抵抗もありえない。人間がないとすれば、あいまいな私はただ世界に漂っているだけ。
 ネグリはそこでフーコーの思想を実在論的に焼き直す形で、マルチチュードという「主体」を設定する。インターネットの発達により代表者を介することなく、人々が政治に直接参加する世界である。

国民国家が崩壊し、あらゆるナショナリティーやそれを軸にうごめく情念が消滅し、すべての個的なアイデンティティーの主張が消え去っていく、雑多な混合体としての社会の現勢化なのである。

マルチチュードは凶暴である。貧民であるマルチチュードは統制などできない。その発現は、右翼の言説が、結局は声を持たない大衆の圧倒的支持によって成立し、暴力的事態を生み出したのと一面では似通っている。そして、マルチチュードの運動性が、テロや反アメリカ、反グローバリゼーションに接近するときには、ローカルでマイナーな左翼運動とも、ぎりぎりに類似してしまうことだろう。

驚きである。そしてついていけないかもしれない。これは現状肯定なのか。
この本はネグリの試みを紹介して終わってしまう。放り出されたような気分になる。
人間が消失した世界で抵抗は成立するのか、学んだ手がかりから、考えていくしかない。