モリのアサガオ 7―新人刑務官と或る死刑囚の物語 (7)

最終巻 主人公である新人刑務官が 教誨師の仕事を兼ねるという異例の人事が行われる
量刑基準からすれば死刑にはあたらないのに 殺人を犯した罪を償うために
あえて 真実を隠して刑に処せらようとする ある意味 自殺しようとする人物に対して
刑務官は その行為を讃え 一時は生きようという意志を示すのに 死刑を受け入れることを勧め 執行する
そして 殺人犯に罪を自覚させるためにも 死刑は必要であると主張して この作品は終わる


涅槃経に「アジャセの廻心」という話がある 手塚治虫ブッダ」に取り上げられている
親鸞もこの話にこだわりがあったのだろう 著書「教行信証」に長文にわたって引用している
国王である父を殺害することでクーデターを成功させたアジャセが
地獄に落ちる恐怖に怯え 心の病からくるのであろう 全身を皮膚病に冒されるが 
釈尊の厚い治療を受け 安直にも思えるような慰めの言葉を聞いて「無根の信」を起こす

世尊、我世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず、伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。
我今始めて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。
「伊蘭子」は、我が身これなり。「栴檀樹」は、すなわち我が心、無根の信なり。
「無根」は、我初めて如来を恭敬することを知らず、法・僧を信ぜず、これを「無根」と名づく。
世尊、我もし如来世尊に遇わずは、当に無量阿僧祇劫において、大地獄に在りて無量の苦を受くべし。
我今仏を見たてまつる。これ仏を見るをもって得るところの功徳、衆生の煩悩悪心を破壊せしむ、と。
仏の言わく、「大王、善いかな、善いかな、我いま、汝必ずよく衆生の悪心を破壊することを知れり。」
「世尊、もし我審かによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、我常に阿鼻地獄に在りて、無量劫の中にもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もって苦とせず。」

アジャセのような重い罪を犯した人物が慙愧し 罪を受け入れ 
地獄に落ちることさえも苦としない心を起こしたことを釈尊
それこそが信心であり 真の心であると最大に評価した
そして釈尊は 罪を受け入れた人物に 決して死を勧めはしなかった
地獄を受け入れて 地獄を生きることをこそ 讃えたのだ