「歎異抄」嵐圭史朗読

前進座法然親鸞」では歎異抄の文章が多用されている

このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々

台詞を聞いて ふと 「はからい」という言葉が使われているんだなぁと 改めて気がついた
それぞれの自由であるとか 勝手であるとか 現代語に置き換えて考えてきたが
それでは捉えきれないニュアンスがあるなぁと
自分の「計らい」で念仏を取るとか捨てるとかできると考えているかもしれないが
それは ほんの小さな「計らい」に過ぎない という意味がこめられている


文は目で読むだけではなく 読み聞かなくては伝わらないものもあるのではないかと
前進座の公演会場で 朗読CDを購入した
「はからい」という言葉が要所要所に出てくることに気がついた

親鸞は弟子一人ももたずそうろう。
そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ。


念仏は行者のために、非行非善なり。
わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。
わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。


誓願の不思議によりて、たもちやすく、となえやすき名号を案じいだしたまいて、この名字をとなえんものを、むかえとらんと、御約束あることなれば、まず弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて、生死をいずべしと信じて、念仏のもうさるるも、如来の御はからいなりとおもえば、すこしもみずからのはからいまじわらざるがゆえに、本願に相応して、実報土に往生するなり。これは誓願の不思議を、むねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにして、さらにことなることなきなり。つぎにみずからのはからいをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さわり、二様におもうは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、もうすところの念仏をも自行になすなり。


信心さだまりなば、往生は、弥陀に、はかられまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず。

如来の御はからい」のなかに「わがはからい」を差し挟むことを 歎異抄は注意し続けていた
そこから善悪浄穢は乗り越えられていく