私として生きよう

2008年「富山教区・別院 蓮如上人五百回御遠忌法要並びに親鸞聖人七百五十回ご遠忌お待ち受け法要」という長々とした名前の法要計画が練られておりまして、私は教化推進部長になっています。そこで採用されなかったテーマを、ここに供養しておきます。。。


私として<ともに>生きよう

   <友・朋・共>


私たちはつながりを生きています。隣人を友人として、互いを仲間(同朋)として、他人と共に生きていきたい気持ちがあります。しかし、他人に合わせ、自分を出さない付き合い方に疲れて、安らぎや癒しを求めて一人になろうとすることもあります。競争にあけくれ、自分のために他人を憎むことを厭わなくなることさえあります。
1998年、テーマ「バラバラでいっしょ−差異(ちがい)をみとめる世界の発見−」の下に蓮如上人五百回御遠忌法要が厳修されました。このテーマには内外から反響がありましたが、「なにを言っているのか分からない」という感想も多くありました。それは「バラバラでいっしょ」という矛盾した言葉の意味が、つながりに悩みつつ生きている私たちの実情を言い当てているとはいえ、うまく捉えきれなかったからではないかと思います。
ここに提案する2008年富山教区・別院 蓮如上人御遠忌 親鸞聖人御遠忌お待ち受け法要テーマ「私として<とも>に生きよう」は、2005年教区同朋大会讃仰講演会(真城義麿氏)の講題です。氏は講題の内容を以下のように展開されています。
「「自ら仏に帰依したてまつる」と私の責任と私の意志で表明したのであるならば、そこから先に自動的に「まさに願わくは衆生とともに」ということになるのです。私がきちんと私を生きるということの責任に立とうと思った瞬間に、それはつながりを生きることに、自動的になっていくのです。」
 「私が私を生きるという責任に立ったときに、つながりを生きる事になる」という氏の言葉は、『バラバラでいっしょ−差異(ちがい)をみとめる世界の発見−』に対する、一つの手がかりを与えてくれているように思えるのです。教えと現実から、このテーマを御同朋と共に尋ねたく、提案いたします。

(以下は同朋大会講義抜粋)
 私として生きるということを今回、テーマとして申し上げたのですが、今日の一番最初に「三帰依」で「自ら仏に帰依したてまつる。」と読みました。その「自ら」というのは本当に「私である」というご自覚がおありかということです。「自ら仏に帰依したてまつる」という私の責任と私の意志で表明したのであるならば、そこから先に自動的に「まさに願わくは衆生とともに」ということになるのです。私がきちんと私を生きるということの責任に立とうと思った瞬間に、それはつながりを生きることに、自動的になっていくのです。「自ら法に帰依したてまつる。」。その「自ら」というのは、他人のことではない、この私のことなのだということです。
 私たちはどうしても人間関係の中で生きていますから、嫌われたくないし、他人に合わせていかねばならない。しかし「私」を見失ってはならないということです。時々、われに返らねばならない。われを忘れてばかりいますが、われに返らねばならないということです。そして、この私の中に働いている、生きる働きですよ。そういうものにもう少し正直にならなければならないと思います。

なんだか小さくまとまりすぎかな。
このところ書いてるブログも、自分で読んでも、なに言いたいのか分からんとこあるし。

精進せんと あかん。