「デリダ (「現代思想の冒険者たち」Select)」を読む前までは

私はおよそ抽象的概念にたいする理解力が不足しております。ですから、残念ながら哲学を体系的に学べず、哲学用語を断片的にならべて適当につなげて膨らませて遊ぶことしかできません。で、学生時代にジョン・L・オースティン言語と行為を読んだことがありました。

従来の哲学・言語学の分析対象の多くが、事実を述べた叙述的な文であったのに対し、オースティンは言語が依頼や警告などの機能を果たす側面に注目し、発話の力や遂行分析などの概念を提唱した。また、現実の使用を離れて語の意味を記述しようとする傾向を、議論を袋小路に陥れるものとして批判した。ウィキペディア

ある文を発言することが、すなわち、その文の表わしている内容を現実に「行なう」ことになるという、そういう文(たとえば「あいらぶゆー」とか)が存在することに注目したという言語学における業績です。私はこの考え方を、「発言するということには、書き言葉にはない特別な力があるのだ」と、受け取っていきました。さらに、この概念は、わたしのなかで「現場主義」「体験主義」とでもいいますか、ただ読んだり知識を増やすだけでは事実を本当に捉えることはできないのであって、その場所を訪れ、人に会うことこそが大事なのだと、膨らんでいました。
あるいは、パソコン通信・BBS・チャットで、無記名な人物との、テキストのみでの不毛な「バトル」を経験し、ネット世界の傍若無人なログを読むにつけ、やはりここは仮想の世界でしかない。会えば分かる。相手の表情、息づかいがなければ、ほんまに他者と交流することなんてありえんのだとの思いを深めていたわけであります。
さらに、従軍慰安婦論争などにおいて、上野千鶴子がオーラル・ヒストリー(口承の歴史)を重視し文書資料中心主義を批判しているというログなどを読みまして、ああ、やっぱり哲学の概念は時代を先取りしてたなと。世の中はエクリチュールではなく、パロール(音声言語)を大切にする時代状況になろうとしているんだなと、一人、悦に入っておりました。
ところが・・・