脱構築

デリダといえば脱構築だと。最近の哲学事情に疎い私でも、それくらいは知ってました。

脱構築は、言葉の内側から階層的な二項対立を崩していく手法である、といえる。デリダは、ソクラテス以降の哲学が、ロゴス中心主義に陥っているとし、また、書き言葉=エクリチュールに対する話し言葉パロールの優越を批判した。とはいえ、この批判は、エクリチュールパロールに対する優越を意味するのではない。それでは単なる階層的な二項対立の優劣逆転に過ぎず、無意味である。ここで、デリダは、プラトンの対話篇の一つ『パイドロス』をモチーフに、古代ギリシア語の「パルマコン」という言葉を使って、脱構築を試みている。『パイドロス』では、ソクラテスエクリチュールを批判し、パロールの優越を掲げているが、その中で登場する言葉が「パルマコン」である。「パルマコン」は「毒」を意味すると同時に「薬」をも意味する点で、決定不可能性をもつ。ヨーロッパで伝統的だった階層的な二項対立の形而上学システムは、こうした脱構築によって済し崩しにされる。(ウィキペディア

「二項対立を崩す」というのは、よく分かるんです。「内部/外部、自己/他者、真理/虚偽、善/悪、自然/技術、男/女、西洋/非西洋」。自己を善として、他者を悪とする人間の性みたいなことはすぐ、私なんぞでも思いつくことですから。しかし、これらの対立の根源に、パロール/エクリチュールの対立を置いているとは知らんかった! 驚きました。高橋哲哉上野千鶴子批判も、この辺りから来てるのかなぁ(上野は構築主義とは何かという本の監修をしているのですが、構築主義脱構築主義は別物なのでしょうか?こんど図書館で借りてこ。)
ただ、音声がまずあって、後から文字が生まれたと考えるのが自然だと思うのですが、デリダは会話が成り立っている時点で、もうそれはエクリチュールが発生している(原エクリチュール)として、元来パロールってないものだとしているように、私には読めました。こういうのも脱構築なのか?(デリダ (「現代思想の冒険者たち」Select) p124)
いずれにせよ、ニーチェからはじまるポストモダンの近代的理性批判にとどまらず、このパロール/エクリチュールの二項対立から話を始めることによって、そのポストモダンを含むこれまでのすべての思想を批判の射程内に収めたということですか。でっかい風呂敷です。
が、高橋は脱構築というのは、デリダが言いたかったことのサワリにすぎないのだと考えます・・・