「構築主義とは何か」
- 作者: 上野千鶴子
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2001/02/01
- メディア: 単行本
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構築主義が対抗しているのは、本質主義である。本質主義対構築主義の用語法はほぼ定着しており、本質主義は、デリダをはじめとするポスト構造主義者が批判してやまない当のものであった。ポスト構造主義の思想的文脈を継承する点でも、デリダのdeconsutructionが「脱構築」と訳されてきたことをふまえ、ここでは「構築主義」の用語を採用することとしたい。
ポスト構造主義は、構造主義が「差異の体系」とみなした空虚な構造を、やがて実体視するに至ったことに強く反発し、その決定論的性格から逃れようとした。ポスト構造主義によれば、「現実」や「実体」は、言説実践の効果であって、原因ではない。原因と効果cause and effectを倒錯するところに本質主義が成立する。だが本質主義は「主義」と名付けられたときに、すでに脱構築されている。脱構築とは、構築の過程を遡及して自然視(したがって本質視)されたものを、脱自然化する実践のことである。その過程を通じて、私たちは「自然」と「本質」とは、それ以上起源をさかのぼって問うてはならない禁止の別名であることを知るのだ。
釈尊が「縁起」として発見した法。それが、アビダルマ哲学の営みの中で、説一切有部のように徐々に「実体化」して受け止められるようになっていく。その流れに歯止めをかけ、対抗するようにして、龍樹が「空」を、世親が「唯識」を説いていく過程を、連想しました。