異文化はおもしろい

異文化はおもしろい (講談社選書メチエ (227))

異文化はおもしろい (講談社選書メチエ (227))

おもしろい本だった。感想は書ききれない、というか、書く元気ない。大事だと思ったセンテンスをメモ。

「エロティシズムとしての韓国」(小倉紀蔵
エロティシズムに関してはバタイユが卓抜な考察をしていて、彼によれば、自然を否定して人間化する、それに伴う「禁止」という行為によってエロティシズムは減少する。しかし人間化し世俗化した世界において、その禁止を否定することすなわち「侵犯」という行いによってこそ、聖なるエロティシズムは現象する、という。
私の場合はこれとは異なり、エロティシズムを「絶対的到達不可能性」と定義する。
韓国のさまざまなものやことに接する。しかし、私は決してそれらに到達することができないのだ。

「異文化に向かう姿勢」(池澤夏樹
異文化とは、まずもって自分の文化を前提とする呼称である。人と文化を置き換えてみれば、自分が自分であることを前提にして他人に接するときに眼前に立ち現れるもの、それが他者であり、異文化だ。
次に、すべての文化は相対的に等価値である。
以上二項を大前提として、異文化に出会う際の敬意と礼儀のことを考えよう。それは人と人とが出会う時の礼儀とさほど異なるものではないはずだ。もう一度踏み込んで言うならば、異文化との出会いには人と人の出会いとまったく同じように、反発や嫌悪、一目惚れや憧れや恋や仲違いに似た展開の可能性がある

「異文化と交流するために心の中の独裁者を殺す」(坂東眞砂子
異文化と接するということは、逆に、異文化を携えた人々の前で、自分たちの真の姿をさらけだすことである。異文化とは、自己の真の姿を映す鏡となる。
民主主義の切磋琢磨をし続けているヨーロッパ人の目には、日本人は、独裁者がいることも知らない独裁国家の国民として映る。
法を民主主義の手段としみなしている彼らにとっては、日本人は、独裁者の命じる法に背かないように絶えずびくびくしている国民だ。私たちの中で、独裁者の目が光っているからだ。いつ何時、お前は日本人として間違ったことをした、と糾弾されるかもしれないと脅えている。(「心の中に独裁者を抱えているから、世界に対しても独裁者となる。」と続く)