クリスマスの文化史

クリスマスの文化史

クリスマスの文化史

こちらは日本人がドイツを中心に、クリスマスについて調べた本。著者自身はキリスト者ではないようだが、例えばサンタクロースの家はフィンランドとかではなく、北極にあるのが正しいと憤慨したりしている。非キリスト者が「正しいクリスマス」について主体的に論じるということも、ありうるということかな。これも異文化との関わり方の、一つの形なのだろう(?) 
クリスマスツリーの起源についての著述が興味深かった。

  • キリスト教以前から冬至に魔よけとして常緑樹を家の内外に飾る習慣があった
  • モミの木を古代ローマの農神祭にお守り、魔法の媒介、豊穣の祈願としてつかった
  • 生命力・希望・堅実さを表してゲルマン人の崇拝の対象になっていた

中世も終わるころ異教徒とキリスト教の習慣が一体化し、月桂樹やカシ、ナラといった常緑樹の小枝は、神と人間が一緒になった幼児キリストの永遠の姿と目されるようになった。モミの木はキリスト教では、我々の罪を受け入れる天国とイエス・キリストの木とされている。ゴルゴダの丘イエス・キリストが磔にされた十字架はモミの木でできていたという。

樹木に対する信仰というのは、かなり幅の広いもののようだ。仏説無量寿経にも「道場樹」なるものが登場する。

また『大経』に言わく、また無量寿仏のその道場樹は、高さ四百万里なり。その本、周囲五十由旬なり。枝葉四に布きて二十万里なり。一切の衆宝自然に合成せり。月光摩尼・持海輪宝の衆宝の王たるをもって、これを荘厳せり。乃至 阿難、もしかの国の人天、この樹を見るものは三法忍を得ん。一つには音響忍、二つには柔順忍、三つには無生法忍なり。これみな無量寿仏の威神力のゆえに、本願力のゆえに、満足願のゆえに、明了願のゆえに、堅固願のゆえに、究竟願のゆえなり、と。 (親鸞教行信証」化身土巻)

浄土で道場樹を見るということが、仏教者の大きな望みであった理由が、クリスマスツリーの歴史から理解できたw さらに、道場樹のことを親鸞は方便の巻、化身土巻に引いているということが大きな問題で、この辺りからもクリスマスの問題は攻められそうだ、って紆余曲折しすぎか?