es[エス]

es[エス] [DVD]

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いったいどんな結末を迎えるのか、ハラハラして見てしまった。
なんともはや、歎異抄「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」の人間観にはまりすぎている。
アメリカの大学で実際に起こった事件を題材にしているということだが、これを取り上げた新人ドイツ人監督の意図に非常に関心が沸いた。最新作がヒトラー ~最期の12日間~ スペシャル・エディション [DVD]ということで、こいつもいずれ見なくては。
バタイユ入門 (ちくま新書)にぴったりの論があったので、メモしておきます。

 自分の何たるか、つまり人間の本質が、アウシュヴィッツの悲劇には見てとれる。フロイトエスと名づけた各個人の中の非個人的なもの、この人間の根底に巣くう非人称の恐ろしげな力がアウシュビッツを引き起こしたのである。ということは、誰しも状況が変われば、この力に衝き動かされて、ナチスの人間たちと同じことをしたかもしれないということだ。運が、偶然が、この力を焚きつけ、当の人間を残虐行為へ差し向けたということなのだ。それ故、ナチスの戦争責任者を非人間扱いして断罪するというのは、人間の本質から事態を捉えない狭い道徳的態度ということになる。「道徳的断罪の既存の形式には、否定するという逃避的なやり方がある。人は結局こういうのだ。あそこに化け物たちがいなかったのならば、あのようなおぞましさは生じていなかっただろうに、と。この粗暴な判断においては人は、化け物たちを人間の可能性から引き離している。可能性の限界を超えたということで人はこの化け物たちを断罪するのだが、そのとき人は、この化け物たちの過剰さこそがまさに可能性の限界を画定しているということを見ないでいる」。
 バタイユのこの文章は1947年10月に発表されている。フランスではまだ解放直後の「知識人の粛清」(対独協力者であった知識人を論壇・文壇から追放する運動、この運動の中心人物の一人にサルトルがいた)が尾を引いていた時期である。ニュルンベルグの国際軍事裁判も終わって1年しかたっていない。文明の名の下にナチスの戦争責任者が極刑を宣告されたことは、まだ人々の記憶に新しかったはずだ。
 バタイユは同時代の支配的な道徳判断に抗っている。彼にしてみれば、このようにナチスの戦争責任者や対独協力者を文明社会から切り離す態度それ自体が、つまり人間の何たるかにめしいたままでいる態度それ自体が、当の文明社会を戦争に導く原因なのである。
 もはや自明なことであるが、バタイユナチスを擁護しようとしているのでは断じてない。各人のなかにナチスの可能性が潜んでいることを肯定したうえでなくては、言い換えればナチスの残虐行為が人間の「総体」の一部に含まれることを知ったうえでなくては、人類を破滅から救う善後策は生みだせないと考えているのである。

ネタバレになるが、最大の危機に主人公が絶望から立ちあがることができた要因を、監督は何だとしたのか、よく分からなかった。最後に海辺で恋人と話し合うシーンがあったが台詞はなかった。TV放映だったのでどこかカットされている? 今度、レンタルして見てみるかな。