宗教は国家を超えられるか

宗教は国家を超えられるか 近代日本の検証 (ちくま学芸文庫)

宗教は国家を超えられるか 近代日本の検証 (ちくま学芸文庫)

阿満利麿さんの本はかなり読んできて、なぜかこの本が最後の方になった。薄々気づいてはいたのだが、法然親鸞についての読み込みもさることながら、日本人の宗教意識を国家との関連で課題にする実践的宗教観を持った人物なのだと、改めて知ることとなった。もっと早く読むべきだった。

日本人は宗教意識が希薄と言われるが、われわれが葬式や初詣などを雑多な習俗としてしか見がちなのは、神道を国教としてあらゆる人々に浸透させるために仕組まれた操作であったことが論証される。本来は信仰心があるからこそ、そこから生活として現れる習俗があって当たり前なのに。この宗教・習俗観から、「靖国は宗教ではない」という、儀礼であるから宗教でないという主張の歴史的背景が、緻密な検証によって明らかにされていく。この観点から見れば、戦前、戦後とも天皇制は法律ではなく、同じく政治的な宗教であるとしか言いようがない。(整然とした著者の論証についていけないほどに、こちらの頭は操作されてしまっていることに、これまた改めて気づかされてしまったことであった。)

著者は、なぜに国家神道が比較的すんなりと浸透したのかについても述べている。それは、山県有朋などによる明治政府の宗教政策が強力であったからだけではない。近世から「現世主義」という考え方が広く受け入れられつつあったからだというのだ。以下、現世主義の要点を引用。

一つは、この世とは別の世界(他界)を、どのようなかたちにせよ、想定するのではなく、関心を今生きているこの世、現世に限ろうとする心性であり、二つ目は、現世を相対化するような世界観を拒むことであり、三つは、この世に絶対的な秩序を見いだし、その秩序に依拠して生きるのが生きがいだという人生観をもつこと、である。

この考え方が現代をも席巻しているというわけだ。現世主義は現実社会を相対化しうる視点をもっていないので、国家が国民を一元化し、そこからの逸脱を抑圧する事象を黙認し、助長することになる。これに対し、多様な文化を守るためにも、国家を相対しうる視点を持つ仏教などの役割は大きいはず、なのに。。。という著者の期待、そして嘆きが、とくに2005年3月に書かれたあとがきから伝わってくるようだった。

あと、柳田國男について。これまで民俗学者という取り上げられ方しか私は知らなかったのだが、過去を問う歴史感覚の重要性を説き、「権力者の手による文書史料のみに頼る文献史学を痛烈に批判し、父母、祖父母伝来の口承を重要な手がかりとすることを主張した」「現代史学」の学者として評価しているのが興味深かった。

これは、私が繰り返し読まなくてはならない本だった。