「女人五障・変成男子」を完全に読み解く −マルクス主義フェミニズムの問題構成によってー

講述 菱木政晴 編集発行 真宗大谷派における女性差別を考える女たちの会

 ミクシィで知り合ったオーチャンさんが「DAYS JAPAN」5月号を送ってくださいました。「第2回DAYS国際フォトジャーナリズム大賞」という特集が組まれており、おつれあいの八重樫信之さんの「らい予防法の傷痕 −韓国・台湾・日本」が審査員特別賞を受けられました。5月11日〜14日に富山国際会議場で写真展を開催します。
 この特集の審査で1位を受賞したのが、ルハニ・コール「India's Invisible Women
インド・男子誕生への圧力の影で」というドキュメンタリー作品です。インドでは現代でも過酷な女性差別が存在し、女性胎児・新生児が殺されているという内容です。社会構造が主な原因だと思うのですが、インドで今起こっている悲劇から、はるか昔に仏教経典が誕生した背景とか、課題としたものを連想しました。
 菱木さんの本は、これまでも小冊子を少し読んだことはあります。まとまったものはまだ読んだことがありません。
 この本の本筋ではないのですが、私、経済学にアレルギーがあったのが、菱木さんの説明によって専門用語の意味をかなり把握することができました。例えば「生産労働」「再生産労働」「搾取」「暴力」です。分かりやすい「暴力」についての解説をメモしておきます。(ちなみに、つれあいは「再生産労働」という言葉を、家庭科で習っていたそうです。びっくりしました。)

 南アフリカのいわゆる「解放の神学」に、「構造的暴力」とか「制度的暴力」という言葉がありますが、これは、多数の人が一部の人の利益のために、抑圧・搾取されている状態を言っています。そういう社会では、貧しい人は、常に危険にさらされていますが、それに対して正当な抗議の声を上げると、たちまち抑圧され、ひどいときには逮捕されてしまいます。つまり、正当な抗議でも、それが暴力によって抑えられてしまうシステムができている状態のことを「構造的暴力」と言うわけです。

 まぁ、菱木さんのおかげで、読書の幅が広がりそうです。
 特長があると思ったのは、菱木さんは「近代」の成果、あるいはヒューマニズムを評価すべきだという主張を、前面に出しているということです。

 社会は変革の対象、自然は利用の対象というのは、近代ヒューマニズム・人間中心主義の基礎ですが、これが軽視されるとろくなことはありません。自然を利用しようなんてけしからん、私たちは自然に生かされているという敬虔な気持ちを持たなくてはいけない、それが仏教の人間観、真宗の女性観ですというのは、少々危険です。男性の坊さんからそう言われたら注意しましょう。(略)
 社会は変革可能だということと、自然は変革困難だけれども、仕掛けがわかれば利用できるという考え方がどんなに人間を救ったかということを、もう一回ちゃんと押さえておかないと、本当にとんでもない方向に行くと思います。
 とりわけ最近は、自然を利用するという考え方は本当に人気がないんです。自然は人間だけのものではないだろう。動物たちのものだ。仏教は動物の命も人間の命も同じに尊重するなどという。違う。全然違う。動物の命と人間の命は全然違うのだということをはっきりさせて、初めて人間社会の平等ということが言えるんです。動物の命と人間の命の区別をしない、つまり、自然と社会を区別しないということの中には、平等という概念は出てきません。

 私はポストモダン、近代批判という考え方に影響を受けてきましたから、こうした論調にはハッとさせられました。ホッブスからルソーに至るイギリス経験主義において「自然」あるいは「自然状態」という言葉が一貫したテーマになっているというのは、知識として持っていました。しかし、「自然」とは封建制度を支える根拠であり、それを変革するというのが彼らのテーマであったという菱木さんの捉え方は、全体がはっきりと見えてくるようで魅力的です。ポストモダンにもとづく新自由主義に対する批判ということもあるんしょう。でもまだ、すぐに受け入れられません。
 そして、「自然」批判を真宗教義に敷衍していかれる点なのですが、こちらについても、すぐに首を縦に振ることはできません。うなずかなければ、男女差別を「自然」として受け入れていることになるのか。ちょっと考えさせてください。
 もう一点。「差別語」の問題が取り上げられ、菱木さんは「差別語」よりも、ステレオタイプを助長するように使うことの方が重要だと言われています。しかし、言うまでもないですが、「差別語」に差別的ニュアンスが込められてしまっていることも、考えていかなければならないと思います。

とりあえず、以上です。