続重病室日誌

 時代も状況もまったく違っているのだが、民雄のエッセイなどを読むと、不思議な親近感をおぼえる。自分の居場所を捜し続け、病と死について怯えること、それを記すことにどんな意味があるのかを問い続け、そしてドストエフスキー好きだということ。こうしたところに共感するのだ。
 この本に収録されている、「火花―北条民雄の生涯」で触れてあった「続重病室日誌」を読んだ。亡くなる2ヶ月前に書いた、最後の著書だ。
 病気を受け入れられなかった民雄が、病室にいる子どもたちや花々を、美しく慈愛を込めてスケッチしている。それはゾシマ長老の兄など、ドストエフスキーの作品の登場人物が臨終の際に、自然やいのちを称賛する様と同じであり、彼がたどり着いた場所がそこだったのかなと、妙にうれしくなる。自分自身との和解。世界との和解。オレも、彼の後ろ姿を見て生きていきたいと思った。
 しかし、親鸞聖人は臨終往生を方便(手だて)と押さえている。臨終を美化する意識にクエッションマークつけてるということだ。なんとも興ざめなことではあるが、今度は「教行信証」をめくり始めているオレだったりする。