「癩院受胎」「吹雪の産声」

いのちの初夜 (角川文庫)所収
倶会一処」のなかに、気になった一節があった。

 『いのちの初夜』が文学賞を受けて文壇にその名が知られるようになった時、遠い瀬戸内海の長島の官舎で、光田健輔は世に嫌われさげすまれて来たらい患者の中からも、そんなすぐれた作家が現れるようになったことを喜び、この未知の青年の文学的成功を祝って乾杯したという話が伝わっている。いかにも光田らしい、ありそうな話だが、もしも彼が民雄の作品を本当に読んでいたとすれば、それほど単純に喜べたかどうか。北条の文学は、もしかしたら光田がやってきた仕事の全否定を含んでいるかも知れないのである。

「倶会一処」の編纂委員会の冒頭に、光岡良二の名前がある。北条民雄の親友であり、「望郷歌」の主人公のモデルとなった人物だ。彼はこの文章にどんな思いを込めているのだろうかと考える。

 「癩院受胎」には自殺した恋人の子を身ごもった女性を「生め!」と励ますシーンがでてくる。

 「新しい生命が一匹この地上に飛び出すんじゃないか、生んでも良いとも。そして、その児に船木の姓をやるんだよ。いいか。」
 「でも・・・・」
 「でも、なんだ、病気か。伝染らんうちに家に引き取ってもらえ。」

 「吹雪の産声」には療養所のなかでの出産シーンが感動的に描かれている。

 「いのちは、ねえ、いのちにつながってるんだ、よ。のむら君」
と彼はまた言った。私は心臓の音が急に高まって来るのを覚えながら、言葉も出ないのであった。生命と生命とのつながり、私は今こそ彼の手紙がはっきりと読めた。(中略)
 突然、何かを引き裂くような声が聴こえた。続いて泣き出した嬰児の声が産室いっぱいに拡がった。
 「うー」と病人たちは低い呻き声をもらした。期せずしてみんなの視線は産室の方に集まった。異常な感激の一瞬であった。

 こうした文章を読むと、民雄が病と死に絶望しながらも、そこで命が生まれるということに礼讃とも言えるような希望を見出していたことが伝わってくる。

 「癩院受胎」は昭和11年に発表され、「吹雪の産声」は民雄の死の翌年12年に発表されている。この頃、光田健輔が提唱した断種政策にもとづく強制堕胎がどのくらい行われていたかについての資料は手元にないが、検証会議の調査によると、昭和10年代の標本が一番多く残っているということだ。
http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/hansen/kanren/dl/4c.pdf

民雄の文章が療養所の内から出る際には、厳しい検問・検定が行われた。それをかいくぐって外の多くの読者を集めたこれらの作品には、園内で行われている非道と光田健輔に対する抗議が込められていたのではないか?


ハンセン病市民学会第2回総会にて配布された資料の中に「『生め!』『生め、生め、生んでいいとも』と叫ぶ北条民雄 ハンセン病絶滅政策を問う」という清水昭美さんの文章があります。すでに、同じ視点をお持ちの方がいらっしゃっいました。