宗派・教区の御遠忌テーマについて レジメ

 〜無量寿経「仏仏相念」から考える〜


1、仏仏相念とは? 
(顕浄土真実教文類より抜粋 聖典p152)
真実の教を顕せば、『無量寿経』である。
どのようなことから、この経は釈尊が世にお出ましになった本意を述べられた経であると知れるのかというと、『無量寿経』に以下のように書かれている。

「阿難が申し上げた。〈世尊は今日、よろこびに満ちあふれ、お姿も清らかで、そして輝かしいお顔がひときわ気高く見受けられます。まるでくもりのない鏡に映った清らかな姿が、透きとおって見えているかのようでございます。そして、その神々しいお姿がこの上なく超えすぐれて輝いておいでになります。わたしは今日までこのような尊いお姿を拝見したことがございません。そうです、世尊、私が思いますには、世尊は、今日、世の中でもっとも尊いものとして、とくにすぐれた禅定に入っておいでになります。(略)過去・現在・未来の仏がたは、互いに念じあわれているということでありますが、今、世尊もまた、仏がたを念じておいでになるに違いありません。そうでなければ、なぜ世尊のお姿がこのように神々しく輝いておいでになるのでしょうか〉
 そこで釈尊は阿難に対して仰せになった。〈阿難よ、神々がそなたにそのような質問をさせたのか、それともそなた自身のすぐれた考えから尋ねたのか〉
 阿難が答えていう。〈神々が来てわたしにそうさせたのではなく、まったく自分の考えからこのことをお尋ねしたのでございます〉
 そこで釈尊は仰せになった。〈よろしい、阿難よ、そなたの問いは大変結構である。そなたは深い智慧と巧みな弁舌の力で、人々を哀れむ心からこのすぐれた質問をしたのである。如来はこの上ない慈悲の心で迷いの世界をお哀れみになる。世にお出ましになるわけは、仏の教えを説き述べて人々を救い、まことの利益を恵みたいとお考えになるからである。このような仏のお出ましに会うことは、はかり知れない長い時を経てもなかなか難しいのであって、ちょうど優曇華の咲くことがきわめてまれであるようなものである。だから、今のそなたの問いは、大きな利益をもたらすもので、すべての神々や人々をみな真実の道に入らせることができるのである。(略)〉
(「顕浄土真実教行証文類−現代語訳―」本願寺出版社 参照)

・阿難は多聞第一だが優秀ではなかった。凡人。
・ある日、阿難が釈尊に初めて本当の意味で出遇う。
 個人崇拝をしてきた釈尊の背景に、「諸仏」をみる。
・阿難は、自分が言い出した問いの素晴らしさをわかっていなかった。
・凡人である阿難が、仏の出世の意味を証明する。
・「善いかな 善いかな 汝、今、よく問えり。」(無量寿如来会 聖典p153)
 宗派御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」


2、大乗仏教の「諸仏」

・世自在王仏と法蔵菩薩、そして五十三仏
 無量寿経はあらゆる時代と場所で諸仏が生まれることを明らかにしていく。
 →顕浄土真実行文類 諸仏称讃 正信念仏偈
 龍樹と天親 天親と曇鸞 曇鸞道綽 道綽と善導 善導と法然 法然親鸞
 親鸞唯円 唯円蓮如 唯円清沢満之
「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は、前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり。」道綽『安楽集』、教行信証後序の後に引文 聖典p401


3、富山教区・富山別院 蓮如上人五百回御遠忌法要
並びに 宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌お待ち受け法要テーマ
「差異 つながり・・・そして いのち 〜孤独の闇から響きあう世界へ〜」

親鸞聖人御誕生八百年・立教開宗七百五十年慶讃法要テーマ(1973年)
「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」

蓮如上人五百回御遠忌テーマ(1996年 発表)
「バラバラでいっしょ 〜差異を認める世界の発見〜」

親鸞聖人七百五十回忌御遠忌テーマ(2005年 発表)
「今、いのちがあなたを生きている」

親鸞と関東の「いなかのひとびと」 同朋会運動と部落差別問題
親鸞と山伏弁円          同朋会運動と靖国問題
親鸞と犬神人           同朋会運動とハンセン病問題
親鸞と赤山明神          同朋会運動と女性差別問題