妊娠小説
- 作者: 斎藤美奈子
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1997/06
- メディア: 文庫
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この本は「妊娠」という観点から著名な小説を読み解いた評論で、下の文章は中絶が社会衛生的に安全に行われるようになっても、石原都知事「太陽の季節」ように、ヒロインが生死をさまようことになるのはなぜかの分析なのだが、読んでハッとした。
2、妊娠中絶は「女に対する制裁」にもなりえます(教育的メッセージ)。
中絶の解禁は、ちょっと前まで死を賭して堕胎に挑んだ女にとってみれば、むしろ解放(生まなくてすむ・安全に中絶できる)と感じられたはずである。しかし、これらの小説では、中絶が逆に作用している。ヒロインはさんざんセックスを楽しみ、最後、中絶手術のせいでひどい目にあう。中絶が、つまり女に対する制裁、懲罰としてはたらくことになる。肉体の快楽(淫蕩のセックス)を享受した報いは、肉体の苦痛(死ぬ・痛い)によってあがなわなければならない、というハンムラビ法典だか仏教説話だか知らないけれども、ともかく因果応報の教訓。いかにも女の浅知恵を嘆く人らしい、教育的な配慮が感じられるだろう。
ハンセン病重監房の記録で紹介されていた「パターナリズム」を思い起こせばさらにはっきりする。患者たちの性を歓び子孫をもうけようとする希望を打ち砕き、懲罰を与える「父」あるいは「神」となって、医者たちは堕胎と断種を執行したということだったのだ! 気づいてみれば、あたりまえのことなのだが、このあたりの道筋がすっぽりと私の頭から抜け落ちてしまっていたことを、(もしかしたら無意識に、意図的とか。。。)斎藤美奈子に思い知らされた。
「妊娠小説」で頻繁に取り上げられている、三田誠広「赤ん坊の生まれない日」は私の愛読書だったし、見延典子「もう頬づえはつかない」も桃井かおり主演の映画で何度も見た。こうした作品がいかに男性の一方的なセックス観、男のエゴのもとで作られているかが、ブラックで面白すぎる分析によって明らかにされて、こちらとしては、なんどもなんどもアッパーカットを喰らってる気分。
例えば橋本治「桃尻娘」シリーズについて
百パーセント「負」だったはずの中絶が、ここでは完全に「正」と受け止められている。彼らの価値は要するに「恋愛」であり、それにくらべれば「性交」も「妊娠」も「中絶」でさえも、恋愛を彩るおまけ、ちょっとしたフリルでしかない。
にしても、なにより奇妙なのは、どう考えても子どもっぽすぎるこの連中がそろって19歳で、今までのほかの妊娠小説、「太陽の季節」や「赤ん坊の生まれない日」や「風の歌を聴け」の主人公たちとじつは同世代である、という点ではなかろうか?
しかし、わたしたちの考えるに、おそらくこっちが「リアリズム」なのだ。
オレの生命観とでもいうものは、ほんまにリアルではなかった。じつに薄っぺらなものだった。桃尻娘にひっくり返された。いのちの尊さを訴えるってどういうことなんだ? 最初から考え直さなければ!!
追記
- 作者: 鎌田慧
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1998/06/22
- メディア: 新書
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横浜屠場労組では『殺生戒』や『穢れ観』をもっての「生き物を殺すことはひどいこと」との価値観こそが、誤っていること、それこそが、私たちへの差別に連なるものであることを明らかにし、戦い抜いています。
そもそも、「生き物を殺してはいけない」などとの価値観は成立するのでしょうか。すべての動物は、人間もふくめ、他の生き物を殺して食べたり、寄生したりして、利用して生きているのであり、それはきわめて、自然の営みなのです。
しかし、はじめのころ、わたしたちは、「屠場をみたこともない人でも、差別的なイメージを持つ」根拠として、生き物を殺すことを忌み嫌う『殺生戒』や『穢れ観』に影響された価値観が、人々の中に、あるいは自分たちの中に、根深く植え付けられている事実まではみえていなかったのです。(略)
たしかに、屠場では「さまざまな物を生みだすところ」という意味で、「捨てるもののない活かす文化」を部落大衆や在日から引き継いだ素晴らしさがあると思います。しかし、それを「殺していることを否定する」ために持ち出したり、相変わらす「生き物を殺すことはひどいこと」との意識の上で主張していたのでは、私たちへの差別も、畜犬センターにはたらく仲間や三味線に貼る皮をつくる仲間への差別もなくなるはずがないのです。
先の斎藤の文章にも「仏教説話」とある。パターナリズム的に宗教を使ってはいけないということか。検討課題。