砂の器

砂の器 デジタルリマスター版 [DVD]

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 富山松竹。この作品がつくられたのは1974年。島田陽子(この人の役は、原作では殺されることになっていた。映画では流産し、倒れて死んでしまう。「妊娠小説」のパターン)、山口果林森田健作渥美清笠智衆春川ますみ菅井きんと、懐かしい俳優さんが続々と登場する。
 70年代の田舎や街や居酒屋の風景、家具や内装、服装と、なにもかもが懐かしい。
 親子の流浪のシーン。前の席の方が号泣していた。私もけっこう泣いた。
 しかしながら、冷静に振り返ってみると、どうも判然としないのが、犯行の動機なのだ。刑事(丹波哲郎)の台詞によれば、犯人(加藤剛)は身元を暴かれることを恐れてではなく、余命いくばくもない療養所の父(加藤嘉)に会うことを勧められて、恩人(緒方拳)を殺害したという。しかし、身元を暴かれれることと、父に会うことって、どう違うんだ??
 もしかしたら、わたしが何か勘違いをしているのかもしれないが、原作では死去している父を、映画が生きているという設定に変えたために生じた矛盾ではないか。いや、加藤剛が殺人を犯した事実を薄めて、なんとなく被害者であるようなのような印象を与えることを、脚本は狙って演出したような気がしてならない。
 とにかく、ピアノをたたきつける加藤剛の旋律と、虐げられて雪の中をとぼとぼと歩く父子の映像のクライマックスにはもう、なんとも言い知れない、鬼気迫るものを感じさせられる。
 あと、この映画のラストシーンに入る字幕は以下のようなものである

 ハンセン氏病は医学の進歩で 特効薬もあって 現在では完全に回復し 社会復帰がつづいている それをこばむものは まだ根強く残っている 非科学的な偏見と差別のみで 本浦千代吉のような患者は もうどこにもいない しかしー 旅の姿はどのように変わっても 親と子の「宿命」だけは永遠のものである

 「いのち」の近代史―「民族浄化」の名のもとに迫害されたハンセン病患者に引用の文章より

 私は、この「宿命」というかたちで人生や人間の関係を把える考え方に同調することができない。「宿命」によって、ある人生がしばられているとすれば、人間に負わされているはずの責任というのはどうなるのか。「砂の器」では「宿命」という人と人との、変更のしようのない関係から、必然的なものとして「殺人」というドラマ展開がみちびだされている(略)私たちの全患協は昭和二十七年から八年にかけ、全国的な死に物ぐるいの運動を展開、らい予防法の改正に取組んだのをはじめ、今日のような状況へ道をひらいてきた。それは「宿命」というものも、人間の努力によって変えられる、ということを示してきた過程であったといえるだろう。(大竹章『砂の器』を考える)

 そしてパンフレットに載っていた加藤剛へのインタビュー。

質問者 和賀英良が「幸せなんてこの世にはない。生まれてきた事、生きていること。それが宿命」だといいます。この台詞はすごいですよね。加藤さんにとっての「宿命」とは?
加藤 「宿命」というと諦めみたいなものがありますでしょ。変えられないものとして。でも人生を切り開くいていくのが人間のそれこそ宿命なんでしょうね。だから人生は愛しいと思うんです。

加藤剛の言葉には和賀英良が憑依している気もする。
どれも、検討課題。