口伝の親鸞 祖父江省念

↑の文宏さんの本が売れていますが、そのお父さんの法話テープ。
親鸞が両親の供養を深く思い、蓮如上人でいう「後生の一大事」を求めて叡山で激しい修行をする。
そして、法然上人の教えによりそれが解決されたという形で、すっきりと話を組み立てる。

 御開山様はただ人ではない。だからわれわれ何年聞いてもボーっとしているが、あなたは仏の再来じゃから一席の説教でご安心ができた。だからわれわれは御開山様の手元へは、側にも寄れんのだ。というような考え方を持つことは、とんでもない間違いなんでありまして。
 御開山が仏の生まれ変わりだから信心簡単に決定ができた。われわれは凡夫じゃから御開山と同じでないというならば、御開山だけがお浄土へ往生あそばして、今日のわれわれがお伴がでけんというようなことならば、浄土真宗に流れをくんだ幸せがなにがあるでしょうか。
 これは、贔屓のし倒しということがありまして、御開山様に金箔つけてただ人ではない。仏の再来だからわれわれそばに寄れないというような考え方は、これは御開山ご迷惑なんです。そういう御開山じゃないのです。おれは仏の生まれ変わりだ、お前らは凡夫だ、だからおれとは違うんだというような御開山ではありません。
 私どもの手元へ降りてきて、腹が立つか、立ちます。欲が起こるか、起こります。われと我が根性でこの始末ができませんと、苦しみ悩んでいる私の手を握って、親鸞もそうじゃったと。じゃが如来の本願によって落ちたくとも落ちれん身にしていただいた。さあ、親鸞の歩いた道ならば、お前ら方だれでも歩けるのだ。親鸞の後を慕えよというのが、あなたの御一代のご苦労ではなかったでしょうか。
 そうすればこそ、腹も立ち、欲も起こり、どうにもこうにも始末のできない親鸞が、私一人を助けんがための弥陀の本願を明らかに聴聞され、長いあいだあなたを引きずりまわいて参りましたが、どうにもならない私が、どうもなって助かるんじゃない。どうもなれんままを引き受けたもうという、如来の本願に目覚められたそのときには、もうおのれ忘れてこんなやつめをようこその目覚めが、「至心信楽己を忘れて、速やかに無行不成の願海に帰す」。

同朋精神とでもいうか、真宗がどういう宗教なのかが、明確に語られている。
祖父江さんらの節談説教は、江戸時代に禁令が出た事があるが、明治期にも本山から禁止されたということだ。それは言論の自由を束縛する集会条例の発布と関連がありそうだ。
法難をくぐった聖人の生涯を語ればどうしたって、国体非難に聞こえる。聖人の生涯を見ずに真宗を語ろうとするなんて論外だが、同朋精神と生涯を語ってもそう聞こえないなんて、そりゃどんな真宗なんだ?