草枕

草枕 (岩波文庫)

草枕 (岩波文庫)

 私が仏教が好きなのは、非常に醒めた視点をもっているからだ。
 物事に執着している人間の様を冷静に見極めるところに魅かれる。
 しかしながら、愚かさや愛情といった、人情を大切にするのが仏教という主張もある。
 そんなところで先祖供養、臓器移植、ジェンダーフリー、「いのちを大切に」などなど、どう考えたらいいんだろう。
 こんな雑多なことでもやもやしていたら、件のフレーズが浮かんできた。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。

 そういえば、理性と感情の問題を、漱石はどう考えたんだろうと、手がかりを探して初めて「草枕」を読んでみた。
 さっぱり面白くなかった。
 世俗を離れた「非人情」という境地についてしちめんどうくさく述べられているが、結局、花鳥風月な世界は、日露戦争に出征する人物を見送るという出来事によって脅かされて、あるいは彼=現実を切り離して終わっていく。

この夢のような詩のような春の里に、啼(な)くは鳥、落つるは花、湧(わ)くは温泉(いでゆ)のみと思い詰(つ)めていたのは間違である。現実世界は山を越え、海を越えて、平家(へいけ)の後裔(こうえい)のみ住み古るしたる孤村にまで逼(せま)る。朔北(さくほく)の曠野(こうや)を染むる血潮の何万分の一かは、この青年の動脈から迸(ほとばし)る時が来るかも知れない。この青年の腰に吊(つ)る長き剣(つるぎ)の先から煙りとなって吹くかも知れない。

車輪が一つ廻れば久一さんはすでに吾らが世の人ではない。遠い、遠い世界へ行ってしまう。その世界では煙硝(えんしょう)の臭(にお)いの中で、人が働いている。そうして赤いものに滑(すべ)って、むやみに転(ころ)ぶ。空では大きな音がどどんどどんと云う。これからそう云う所へ行く久一さんは車のなかに立って無言のまま、吾々を眺(なが)めている。吾々を山の中から引き出した久一さんと、引き出された吾々の因果(いんが)はここで切れる。もうすでに切れかかっている。車の戸と窓があいているだけで、御互(おたがい)の顔が見えるだけで、行く人と留まる人の間が六尺ばかり隔(へだた)っているだけで、因果はもう切れかかっている。

 やはり、現実社会のなかで私は、理性と感情の狭間を彷徨い迷い迷いしていくしかないのかなぁ
 と、考えた。