自分自身への審問

自分自身への審問

自分自身への審問

 辺見さんが富山で講演されたのは2003年9月11日だった。そのとき、購入したサイン入りの「いま、抗暴のときに (講談社文庫)」は、恥ずかしながら積読したままだ。どうも、いまだに歯が立たない感じだ。
 富山でも調子が悪そうだったが、2004年3月に倒れられ、病床で本を書かれたと知り、性懲りもなくこの本も購入してしまった。なんとか最後まで読み終えたが、やはり文体など、もう一つ、合わないところがある。
 それでも、書かれていることの端々に刺激を受ける。たとえば、収録されている「万物商品化と物語の喪失」という短文の一節。

水や空中権だけではない。労働、教育、福祉、医療、冠婚葬祭、スポーツ、臓器、遺伝子、精子、血液、セックス、安全、癒し、障害者・老人介護・・・。金銭に置き換えられないものを身のまわりに見つけるのは至難の業だ。これを「万物の商品化」という。(略)では、物語、理想、夢、正義・・・といった心的価値系列はどうだろうか。まさかここまでは万物商品化の力は及ぶまい、と判じるとしたら楽観的に過ぎよう。モノの商品化をあらかた終えた現在では、コンテンツ産業に見られるとおり、心的価値こそ資本主義の生き残りをかけた商品化のターゲットになっている。

「癒し」などはかなり心的価値に入っているわけで、安楽死尊厳死が論義され、死の自己決定権にも踏み込みつつある今、「死に方」についてのきらびやかな商品化が徐々に始まっていると感じる。そのうち「あなたのお好きな死に方を、安心低価格でご用意いたします」という広告が現れそうだ。
 脳出血と癌という病を抱えた著者は自死の衝動に襲われたことを、手術前後の審問官との対話のような形で記している。しかし、自死の理屈づけを「粉砕」するものとしてV・E・フランクルの言葉が引かれている。

つまり、すべては結局まったく無意味だとも十分主張できます。おなじように、すべてに大きな意味があるばかりか、そのような全体の意味、そのような意味の全体がもはや捉えきれないほど、「世界は超意味を持つ」[世界は意味を超えている]としかいえないほど意味があるのだとも主張できるでしょう。『それでも人生にイエスと言う』

 死は意味づけできないもの。不可説、不可思議。あらゆる意味を超えたものだと。
 我々は、それを公然と自己決定可能な「もの」として考えはじめた。
 後は、ただ、深みにはまっていくだけなのか?

(追記)吉村昭さんについてのニュースを聞き、思うままに書きました。