亡き妻にありがとう −開かれた道ー

真宗大谷派公報誌「真宗」2006年9月号収録 解放運動推進本部「ハンセン病は今 109」
出版部転載許諾 (2008・5 一部修正)

 妻よ・・・、あなたが突然にお浄土へ旅立ってからもうすぐ一年ですね。
 病状の関係から、医療の整った岡山医療センター病院ヘ緊急に移送したあの日、君は「明日は見舞に来なくていい、暑い時期だし、一日二日体を休めてから来ておくれ、私も精いっぱいに頑張るから・・・」と、私の体を気遣ってくれる気醜のこもった言葉におされて帰って来たものの、朝起きたら何か行かずにおれない気持ちにかりたたれ、早々に病院へ向いました。
 会えるよろこびに急いでドアを開けたとたん、異常な雰囲気にびっくりし、「あれ、どうしたんだろう」とベッドに近づくと、主治医から「心肺が停止しております。すぐご家族ヘ連絡して下さい」と言われた時には、心臓が耳から飛び出さんばかりにガンガン響き、体中の血の気がひいて冷や汗でびっしょりになり、その上ショックで頭の中が真っ白になって、なぜ?どうして?という自問自答の時間だけが過ぎていきました。
 本当に人との別れはなんとあっけないものでしようか。昨夜あんなにも気丈夫に話してくれたのが、まさかこれが今生の最後の別れになろうとは思いもしませんでした。早朝に妻の容態が急変し、瞬時のうちに七十九歳の苦悩ばかりの人生を終えました。如何に宿業とはいえ、死が余りにも急だったので、今もって心の整理がつきません。後悔ばかりです。
 それにしても、人間の関係ほど大切なものはないと、改めて考えさせられております。失望させることは簡単ですが、深めることは信頼をもって日々を重ねないと駄目ですね。
 今では、全てがさみしい思い出となりました・・・。今を生きることの苦悩に触れるとき、じっこんのお寺さんからいただいたお便りに、「思い出は“エネルギー”になる」という、その言葉がきつく心に響いてくるのです。真実を求めて止まない魂の発見は今、ひとりの人間の死が、この私のいのちとひとつにつながるものだったと気付かせてもらうとき、一日一日が尊いいのちです。
 今も私は率直に言って、療養所に入っている事を誰にも知られたくないのです。それにはハンセン病を病む者の心の痛み、そして家族が世間から受ける冷ややかな眼差し、差別があるからです。
 現今では、ハンセン病は完治する病気であり、恐れる病気ではありません。しかし今なお一般社会・地域にあってはまだまだ偏見差別が根強く、治る現状をなかなか理解してくれません。今もつて古来からの因習にこだわり、私たちを覆っております。そうした厳しい現実を見るとき、帰郷への願望は遥かに遠いものがあるのです。いわんや故郷へ帰らないのは、一つは家族の平安をねがうが為の故にあります。その意味において、私にはこの地は安住の場であり、人生終滞の地でもあります。
 世間の風潮を恐れ、家族に苦痛をかけてはいけないと、帰郷を断っていたのが、故郷へ妻の死を知らせたことによって弟とその子ども(甥)達が葬儀に来てくれました。まさか遠方から来てくれるとは思いもしなかっただけに、正直言って驚きでした。
 差別偏見の根強い地域にあって、ハンセン病の実状及ぴ愛生園の現状をどのように知ったのかをたずねたら、インターネットで検索し、ホームページでくわしく調べたと言いましたした。そしてまた、私の存在を知らない筈の弟と甥の連れ合い達も、「行って来なさい」とこだわりなく勧めてくれたそうです。悲哀の中、肉親との出会いがあろうとは予期せぬことでありました。とにもかくにも、今まで閉ざされていた道が妻の死の縁によって開けました。そしてこの尊い縁を大事に大事に育てていかねばと思っております。
 会えば別れる人生、四十二年間を連れ添ったた妻との別れは、大変つらく深い悲しみではありますが、その別れを悲しみだけで終わってはいけないのではないかと思った時、その妻との別れがあったからこそ、死を縁として如来様とも出遇わせていただき、如来様の中で生かされて居る、そのことを忘れないで、ナムアミダブツと如来様とお話しています。そして妻が逝ったことで、空いた大きな穴も、遣影と語りながら埋める時間が、心を癒してくれます。
 日ごろから誰にでも明るく接し、不満を言わず、工夫して黙々と実行する、まじめで心やさしい妻でした。仏のみ国からきっと光となって私にはたらきかけているんだろうと思ったら、ポンと肩をたたかれた気がしました。あの日から止まっていた心の時計が、今動きだしました。ありがとう妻よ。これからも私を見守ってください。


Mさんのこと

真宗大谷派ハンセン病問題に関する懇談会委員 中杉隆法

 岡山県瀬戸内市にある国立療養所長島愛生園では現在約四二四名のハンセン病回復者の方々が生活をされています。その入所者数は全国の療養所の中でも多いほうで、園の中を歩いているといつもたくさんの知り合いの方々とお会いし、そこでいろんな会話が弾みます。
 Mさんもその一人で園の中を颯爽と自転車で移動され長身で優しそうなその雰囲気でいつも私たちを暖かく迎えてくれます。富山県出身で幼いころから熱心な真宗門徒であったご両親のもと、Mさん自身も毎日欠かさず御内仏に手を合わされておられたそうです。Mさんがハンセン病を患ったのは二十四歳の時で、二年後の昭和二十六年の九月、二十六歳の時に富山から二日がかりで長島愛生園にやって来られました。それから今日まで五十五年間療養所で生活をされてきました。その月日は苦悩の連続であったと語られています。とくに家族との再会、往まれ育った故郷へ帰るという願望は差別、偏見の現実の中で遥か遠いものとなっていきました。家族に会いたい、しかし故郷へ帰らないことがこの病気に罹って迷惑をかけた家族に対するMさん自身のせめてもの思いやりでもあったのです。その両方の思いが濁巻く中で長島愛生園を「安住の場・人生終焉の地」として生きてこられました。
 また療養所生活の中で真宗同朋会の導師として日々の勤行、園内で亡くなられた方々のお通夜や法事を勤めてこられました。Mさんはそこでどのような思いでお念仏を称えらてきたのでしょうか。私自身これまでMさんの思いをゆっくりと聞くということができなかったのですが、このほどMさんが療養所で苦楽をともにしてきたお連れ合いとの死別をきっかけに、これまでの様々なお話を聞かせていただくことができました。前掲の文章はお連れ合いとの別れを通した出来事をMさん自身が綴られたものです。
 Mさんは故郷との関係回復の歩みをはじめられましたが、今なおふるさとへ帰ることができない人、ハンセン病だったという過去を語れずにいる人がいます。ハンセン病回復者の方々の持っておられる思いや願いというものは本当に一人ひとり違ったものです。今一度、一人ひとりの心の奥底から語られた声に丁寧に耳を傾けたいと思います。

 9月5日から6日、「ハンセン病問題ふるさとネットワーク」の有志20名あまりで長島愛生園、邑久光明園を訪ねました。
 これまで私たちと距離を置いておられたMさんが、愛生園で私たちを迎えてくださり、光明園での懇親会にも参加してくださったことでした。