機動戦士ガンダムTHE ORIGIN (14)

 この作者名にある「矢立肇」について、ハテナでは以下のような解説がある。

日本サンライズのアニメーションのほとんどで、原作・原案としてこの名があがる。

実在の人物ではなく、サンライズの企画スタッフが使う総合的なペンネームである。

名前の由来は「やりはじめ」から。(やたてのはじめ、で「書き始め」との意味もあり)

 富野由悠季監督はいるものの、「機動戦士ガンダム」という作品は個人のものと言うよりも、多くのスタッフによって作られているということだ。同様に、「ガンダム」と銘打った、富野氏以外の監督によるアニメ作品もおびただしく存在し、さらに「ガンダム」は、ゲーム、ガンプラ、コミック、小説などの分野まで、ノホーズに展開し、現在も拡散し、新しいものを生み出しつつある。

 その中で、オリジナルはアニメ「機動戦士ガンダム」だったとはいえ、他の「ガンダム」という名をもつ作品群がニセモノかといえば、決してそうではない。どの作品もそれなりの質を持っており、中にはオリジナルを超えたといわれる評価をもつものがある。ここまでの展開を思えば、今後、さらに素晴らしいものが生まれてくる可能性を信じる人も多かろう。

 突飛だが、仏教経典も同じようにして展開してきたことである。どの経典も「仏説」と銘打ちながら、ブッダが語ったオリジナルはほとんど存在していない。それなのに、「如是我聞」、私は仏の教えをこのように聞いたとしてブッダの前生譚やらなんやらで、八万四千ともいわれる経典群が存在しちゃってる。中には、シルクロード、中国で成立したと思われる「仏説」まであるわけだ。

 では、それらの経典群の大部分が「偽経」なのかといえば、そうではない。作品の価値は、見るものなしでは生じない。見て楽しみ感動するものがいて、初めて作品の価値が生じるのだ。私はこのように仏の教えを聞いた、私のブッダはこのようなことをおっしゃるような人だ、オレのガンダムはこういう風に活躍するはずだというところから、作品世界が無限に展開していくところが、じつに面白いのだ。

 前置きがやたら長いが、このコミックも、オリジナルでは設定にしかなかったルウム戦役レビル将軍の脱出劇を、初めて実像として描いている。元来、フィクションであるアニメ作品に、さらにフィクションであるコミックを重ねているのだが、両方がオリジナルストーリーを展開しているわけで。だから、この際、もうなにがオリジナルなのかフィクションなのかなんて考えてもまったくの無益なのだ。

とにかくこれらが僕らを楽しませてくれるガンダムの世界。
このこと以外には、なにも、必要、ない。