スピリチュアルにハマる人、ハマらない人

スピリチュアルにハマる人、ハマらない人 (幻冬舎新書)

スピリチュアルにハマる人、ハマらない人 (幻冬舎新書)

 どうでもいいことだが、幻冬舎の新書は値段の割りに薄くないか? ま、これはたいしたことではないです。。。
 この本を読もうと思ったのは、仏説阿弥陀経の浄土荘厳についてお話しなくてはならなくなったから。
 死後は有るのでも無いのでもない、「無記」という見解を仏教は取っています。しかし、不可知というか、沈黙するしかない事柄について、浄土教はなぜ死後往生を思わせるような表現を含んでいるのか。
 私は下の本の「なぜ極楽なのか」という章を参考にして考えてきました。かたちなきものがらを具体的に表現する方法、「荘厳」や「方便」という概念に注目していくわけです。
 
親鸞の教行信証を読み解く V化身土巻(後) (親鸞の教行信証を読み解く)

親鸞の教行信証を読み解く V化身土巻(後) (親鸞の教行信証を読み解く)

 しかし、これまで前世、死後という問題に冷淡であるとされてきた若い世代において、そうしたことを信じる割合が大幅に増えてきているということを、香山さんのデータは明確に示しています。「スピリチュアル」の浸透です。なんだか江戸時代みたいになってきたのかな。ですから、「仏教の中になぜ死後を思わせる記述があるのか」では通じない。「死後の記述を通して浄土教はなにを説こうとしているのか」というテーマの立て方が適切になってきたのかもしれない。
 さて、これまで広まっていた「アダルトチルドレン」という概念が「私がうまく生きられないのは幼児期の親の影響、だから親の責任だ」と受け止められたのに対して、スピリチュアリストたちは誕生や人生の自己決定論者であり「あなたはこの時代、この性、この親を自分で選んで生まれてきたのであるから、自分で責任を取るべきである」とします。だから潔いのかというと、そうでもありません。
 アダルトチルドレンの概念は、自分の苦しみの原因を、親だけではなく、家族、そして社会制度、政治権力といった外に向けさせるという狙いもありました。それに対して、スピリチュアリストは限りなく内向的に、すべての原因は自分にあるということにもなりがちです。で、癒しや許しの言葉をスピリチュアルカウンセラーに求めて、自己完結してしまうという問題があります。
(追記

 ハンセン病療養所で強制堕胎された女性たちは、妊娠したことが悪かったと、あたかも妊娠が罪であったかのような意識に苦しんでいる。罪は彼女たちにはない。罪は国家にある。しかし、なぜこうした罪の意識に彼女たちはいまだになお支配されているのか。二〇〇六年五月一三日、ハンセン病市民学会の第二回総会・交流集会のシンポジウムでこの問題を取り上げたさい、今後、障害者や女性の人権運動と議論を深め、ともに国に対して強制断種・強制堕胎の責任を追及し、謝罪させるという方針を参加者一同で確認したが、その場には大勢の若者がいた。インテリの「知的遊戯」に堕すことのない歴史学への希望を、わたくしは、そこに発見した。
 藤野豊「忘れられた地域史を歩く」大月書店

 隔離政策に関与した様々な業界が、謝罪声明にのみ終始してそこからの展開がない問題も、運動の中で指摘されている。)
 そして香山さんはこのブームについて、かなり手厳しいことも言っています。麻原彰晃から「すべての出来事は偶然ではなく必然」「あなたが生まれたのには意味がある」といわれた信者たちとスピリチャルの教えは、地続きでなんら変わらない。あるいは、「私」という存在に対する全面肯定だけで、利他主義的な考え方がまったくない。つまり他人には無関心で、「トップと私」との関係だけを重視。連帯という考えもない。
 ただし、江原啓之氏が平和問題、靖国問題について、積極的に発言をはじめていることに触れて、この本は終わります。
 こうして読んできて、香山さんのスピリチュアルについての分析は、神人崇拝「善知識だのみ」、自虐的「機の深信」、社会を忘れた「精神主義」といった、浄土真宗において提出されてきた課題と重なる部分があると思ったことでした。
 とりあえず、他山の石、というのは楽観しすぎ、かな??