靖国史観―幕末維新という深淵

靖国史観―幕末維新という深淵 (ちくま新書)

靖国史観―幕末維新という深淵 (ちくま新書)

 明治維新前の儒学靖国神社の成立の関係について興味を持っていたので、それらしい本だということで読んでみた。
 まず第一章は「国体」。基本的に「国家の統治体制」を意味する言葉だということで、中国の古典には典拠はない。水戸藩で「大日本史」編纂に尽力した会沢正志斎が、祭政一致国家の連続こそが「国体」であるとして論じたのが、それである、ということだ。
 私は「国体」というと敗戦間際の「国体護持」というイメージが強くて、日本国土を天皇の身体と同一視していく有機体的なイデオロギーだろうと思ってきた。でもまぁ、そう間違ってもいなかったわけだ。
 第二章は「英霊」。この典拠は朱子学藤田東湖の水戸学における理気論にあるという。人が死ぬと「気」が残る。君主を守るという「理」のために死んだ人を追悼することによって、その人の気は落ち着きどころを得るということだ。
 果たしてこれが、莫大な数の死者を祭祀対象とする、靖国神社独特の信仰形態の説明になっているんだろうかとも思うが、案外こんな単純な内容なのかもしれない。
 第三章はなぜか、「維新」という言葉を取り上げる。というか、儒学靖国神社の関連を論じることは、この本の目的ではない。遊就館にあるような靖国神社を成り立たせる歴史観の独善性を示そうとしている。ここまで読んで、やっとそういうことに気がついた。
 明治の政権交代は「革命」ではなくて「維新」であるとされている。「維新」の出典は、中国の古典「詩経」にある。「革命」では前後の政権に連続性はない。まったく新しい為政者が登場する。それに対して「維新」は元来政権をとるべきであったものが、改めて政権につくという意味らしい。
 こうして水戸学と平田派国学の影響を受けた「明治維新」の勝者たちによって靖国神社が創設された時点までさかのぼる方法で、筆者は靖国史観を批判する。

 天皇のために戦った軍人たち ー正確にいえば、天皇の意向であると自称する勢力に殉じた人たちー が、日本国のために尊い犠牲であると論理的にすり替えられ、その行為を顕彰する目的で創建されたのが、この神社なのだ。
 神武創業の昔に戻すべく奮闘落命した十九世紀の志士たちは、「維新」の功労者として「英霊」とされた。そこでは薩摩・長州・土佐といった(江戸時代的感性からいえば)「国籍」は不問に付された。(略)
 だが、ヤマトに生まれ育っても、「維新」という御大業に逆らった者たちのように、天皇に反抗した連中は英霊になれない。
 それでもあなたは「この神社にはお国のために戦った人たちが祭られている」という主張に同意しますか?

 筆者は、いうなれば「天皇崇拝には基づかないナショナリズム」という立場から、靖国を批判している。
 ちょっと変わってるな、と思う。