思想としての全共闘世代

思想としての全共闘世代 (ちくま新書)

思想としての全共闘世代 (ちくま新書)

 以前この人の本を読んだことがあるナと思つつ読み進めたら、私が20代の頃に愛読した「わかりたいあなたのための現代思想・入門 (宝島社文庫)」の編者だった。「イラスト西洋哲学史」』 (JICC出版局, 1984年) も楽しんだ。両方とも、難解な用語についていけない落第哲学徒だった私を勇気づけてくれるような本だった。懐かしさが沸いてきて、何十年ぶりに先生に会ったような気持ちになり、今どうしていらしゃるのだろう、ネットで検索したら、なんと、今年の8月に亡くなられていた。ご自分の半生を振り返るこの本を書かれて、一年余りで亡くなられたということだ。残念だ。
 自分の青春時代を美化して後の世代を歎くのではなく、あの時代を生きたものとして今をどう生きるのかが課題であるという姿勢が、この本に貫かれていると思った。その意味で、そして今の私が抱えている問題についても先輩として論じてくれているような、指針になる本だった。
 以下、特に大切な部分を抜書きしておきます。
 小阪さん、ありがとうございました。

三派全学連の「加担」の論理

・・・ベトナム反戦運動は、アメリカのベトナム戦争に日本も加担している、日本はベトナム戦争の後方支援基地となっている、日本で「平和」に暮らしているあなたもベトナムに落とされている爆弾と無関係ではないどころか積極的に加担しているのだ、という「加担」の論理をつきつけたのであった。

 三派全学連の運動は、戦争への協力を糾弾するという点では戦後民主主義の延長線上にあった。だが、一人一人の加担を倫理的に問いかけ行動をうながすという点で、戦後民主主義的な枠組みをこえた質があった。社会のなかでの一人一人のかかわりが問われたのだ。また加担の論理は、それはけっしてあなたと無関係ではないと問いかける点で、世界の問題を個人とつなぐという機能をはたしたが、裏返すと世界のどのような問題もあなたの問題だと脅迫する論理にもなりうる点には注意してよい。

東大闘争から生まれた「自己否定」

・・・東大闘争がいわゆる一般学生をまきこんでいくプロセスは、クラス討論などをつうじて、「では君はどうするんだ!」という問いかけが深まっていったからだ。全共闘運動が「個人的」な闘争だったことが、逆に闘争に参加するかどうかを通してその人自身の生き方が問われるという特徴をつくっていった。

 自己否定は後に自己脅迫的な論理、つまり現在の自分を否定して運動や革命に参加しなければならないといったふうにも使われていくが、当初はあくまで、学問の中立や研究という美名で自己を肯定するのではなく、学問が社会関係のなかで特権的・加害的な役割をはたしているのではないか、そういった研究者エゴを自己否定せよ、という内容だった。

連合赤軍は「敵」

ぼくはずっと、自分たちのだれもが森恒夫になる可能性をもっているということをふまえてものを考えていかねばならないということを、自分の公準のひとつとしてきたが、もうやめた。連合赤軍的なるものは、全共闘的なるものの「敵」なのである。つながる要素があるからこそ、「敵」だということをはっきりと言わなければならないといまは思っている。

七〇年代

六〇年代の方法論自体が、この時期の生き方をむずかしくしていた。それは自分からはじめるという方法や、自分自身の生き方自体を問題とするという態度がもたらす困難のことだ。昂揚期はいい。状況の昂揚に引きずられて、自分自身がふくれあがっていく。だが「この問題も自分とは無関係ではない。」という自分と状況を積極的にむすびつけようとする態度は、後退期には「あの問題もお前と無関係ではない。」という倫理的な脅迫となっておりかえす。昂揚期にはふくれあがっていた自己観念も縮小していく。どう生きればいいのかわからないだけではなく、自分自身も見失われて、空虚な自己意識やいらだちだけが残るのだ。

・・・ひとには変えられる部分と変えられない部分がある。変えられない部分にはつきあって生きるしかない。

・・・「不健全さ」を肯定すること、「ヘン」であることを肯定することだった。「健全な精神は健全な身体にやどる」をもじって、「健全な精神はやや不健全な身体にやどる」「健全な精神とはやや不健全な精神である」というのも、ぼくの常套句になった。

八〇年代

・・・基本にあるのは七〇年代以降「豊かな」社会が出現し、その社会を「第二の自然」として感じるような世代が育ってきたことである。個人の欲望が肯定されること、社会の様々な局面を不合理であったとしてもそれなりに支えていた権威が解体すること、社会の関係が恣意性をもとにくみたてられていくことといった大きな変化が進行した。いわゆる「相対主義」の時代がはじまったのである。

 バブルへとつづく消費社会の欲望の流れに身をまかせる世代の下には、恋愛か性、あるいは超能力チックな格闘シーンにリアリティを感じるような世代が育っていった。オカルトへの興味から異世界願望まで、かつて革命についての物語で囲い込まれた周囲や社会についての異和感は、これまでとは異なった物語として表現されるようになったのである。

スタイルとしての全共闘

・・・まず全共闘とは自分のいる場所(大学)で問題があったから起きた運動である。それは、場所が異なればまた運動も異なってくるということをふくんでいる。そして、「やらなければならない」ではなく、「やりたい」や「やるのが当然だ」と思ったから参加した。その基準は個人の恣意性もふくめた選択にあった。その上で討論という形でそれぞれに問いかけの輪をひろげていった。しかし最終的な基準を個人の選択においていた。
 次に、形式的に多数でなくとも自分が自分の決意においてNOを言いたければ運動をはじめることができる。結果がうまくいくかいかないではなく、いま目の前に起こっていることがおかしいからNOと言う。これも全共闘運動の原点の一つである。
 上下関係や指揮命令系統はなく、自分が発言したことに責任を負う。逆から言うと言いだしっぺを尊重するし、実際に行動する人間を多少考えが違っていても尊重する。手作りの組織であり、効率や効果という点では限界を持っているが、柔軟な組織である。何かの目的に従属するのではなく、物事を出発点から考える発想、当事者を重視する発想がそこにはある。全共闘運動とは、運動することそれ自体が態度の表明であり、意味をもつ運動だと言えるかもしれない。たしかにそこに生じる混乱もふくめて、物事は計画通りにはいかない。だが、結果よりも今何をおかしいと感じているかといった発想が全共闘の出発点である。課題があるから共闘し、そのために組織は必要なのであって、組織の維持は目的ではない。
 ことばで抽出するならば、自発性・現場性・当事者性・対等性を重視した運動形態こそが全共闘の本質なのである。・・・