釈尊 生涯と教え 

[著者名] 真宗大谷派学校連合会 [書籍コード] 001905
[価格] \500  [ISBN]  4-8341-0295-5 C1015
 仏説無量寿経、序分、衆成就である。釈尊と阿難の問答はじまる前、菩薩衆に触れた文が非常に長い。耆闍崛山釈尊の話を聞きにあつまった菩薩たちが、みな「普賢大士の徳に遵っ」たものたちであったことを長々と説明している。そして、その内容は、ほとんど釈尊の生涯に沿っているという特徴をもつ。続いて釈尊が阿難に語る法蔵菩薩の物語もまた、「国を棄て、王を捐てて、行じて沙門と作」る所から始まる。
 その意味で、無量寿経は、釈尊の生涯を無量の菩薩たちの物語として普遍化し(阿難もその列に加わる)、法蔵菩薩の物語として純粋化していると考えられないだろうか。
 いうまでもなく、教義だけではなく、釈尊の生涯が仏教そのものである。ジャータカや仏弟子たちのエピソードを含めて、釈尊の生涯こそが、大乗仏教として多くの民衆に受け入れられていく基底にあったと言えるだろう。門徒にとって、親鸞の生涯がそうであるように。
 藤場俊基さんは新刊のなかで「釈尊が我々に伝えようとした精神」として、以下のように書いている。

 釈尊が生きておられた当時の、原初の仏教が、どのように語られていたかということについて疎いものですから、非常に乱暴な言い方になるかもしれませんが、私なりにその要点を言ってしまうと、釈尊が実現しようとしていた人と人との関係は、一対一の関係の対等性とすべての人に対する平等性ということであったのではないかと思います。つまり、釈尊自身が、私とあなたは対等であるという関係を誰に対しても同じように実現していた、もしくはそのようであろうとしていた。極論してしまうと、そういうことにあるのではないかと思うのです。p151

親鸞の仏教と宗教弾圧

親鸞の仏教と宗教弾圧

 このあと、藤場さんは上の視点で無量寿経を読み解く。

 『大経』の主人公は、法蔵菩薩ですが、法蔵菩薩が願を成就して阿弥陀と名づけられることになります。その阿弥陀如来が象徴する精神は、一切衆生摂取不捨です。阿弥陀仏の前で、誰もが対等で一切が平等の関係になるということです。p152

教義というよりも、実践的な視点が無量寿経の根底にあるということになるか。
ということで、釈尊の生涯をこの「対等と平等」ということを軸に読んでみようかと思っている。祖父江省念氏の「口伝の親鸞」を聞いて、このところ法話と頼まれたとき、わたし自身の親鸞伝を話してきた。それなりにできたかもしれない。今度は、釈尊の生涯をテーマとした法話に挑戦したい。