生と権力の哲学 第三章 第四章

生と権力の哲学 (ちくま新書)

生と権力の哲学 (ちくま新書)

第三章 「人間」のつくられ方 −「狂気の歴史」から「監獄の誕生」へ
フーコーの二冊の著作から自律訓育型社会がいかにして形成されるかが説明される。
それは暴力によって隔離してきた狂人や犯罪者を、社会へと解放したから、というのである。
監視や規律を重視する病院や監獄そのものが社会へと持ち込まれた、そこから規律訓育型社会、警察国家が誕生する。
第四章 セクシュアリティと生権力 −「性の歴史 第一巻」
社会から抑圧されているとフロイトが主張した「性」は、むしろ近代に入って権力を支えるものとして力をもつ。労働者ではなく貴族階級がフロイトの「抑圧」を支持したことがその証拠。

こうしてフーコーは身体と性の二面から生権力が成立してきたとする。

 ひとつは『監獄の誕生』で論じられていた、規律訓育型の権力である。それは、身体の『解剖政治学』として、身体そのものの馴致、有用化、管理システムへの組み込みを基本とする。学校、弊社、工場という制度において、こうした権力が見出されていたのはすでに論じたとおりである。
 これに加えてフーコーは、「生」を中心に据える権力の第二のかたちが、18世紀中頃に出現することを協調する。それは規律訓育型権力をさらに展開させた<生政治学>にほかならない。<生政治学>では、「種」としての生物体が議論の中心になる。生殖や誕生、死亡率、健康の維持、寿命がそこでのテーマになる。

フーコーはとにかく逆説的である。そして、正常と異常、抑圧と抵抗、隔離と解放という二項対立で語られ続けてきたテーマを根底から崩す。両者とも権力であり、互いを補完しあうような関係。しかしこれでは、世の濁りが深まるばかり。我われは泥沼にどっぷり浸かって抜け出せそうもない。フーコーは本当に「幸運なポジティビスト」なのか? この世の「空」を語り尽くし、そのまま「空」に堕ちてしまっているのではないのか?