隋唐の仏教と国家
- 作者: 礪波護
- 出版社/メーカー: 中央公論社
- 発売日: 1999/01
- メディア: 文庫
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読むことによってはっきりしてきた疑問点について記す
1 「仏説観無量寿経」おける「無量寿仏」「阿弥陀仏」の訳語について
観経 第十六観下下品において流布本に「称南無阿弥陀仏」とある部分が
北魏曇鸞「浄土論註」所引「観無量寿経」では「称南無無量寿仏」となっている
善導が見たものは「称南無阿弥陀仏」になっていたようである
また 観経のなかでも「無量寿仏」を使う部分は禅観念仏
「阿弥陀仏」を使う部分は称名念仏を主題としている という見方がある
論文を読み取る力がないが つまり 時代により訳語が変化した可能性と
経典のなかでの二語の使い分けがされているという可能性の 両方があるということだと思う
どうなんだろう?
2 隋唐の時代に浄土教はどれだけ民衆に浸透していたのか
この論文集には北魏から高宋・則天武后の時代にかけて
阿弥陀仏像が盛んに建立され 敦煌石窟でも中心になっていたことが報告されている
しかし この論文では 中国王朝の変遷とともに時には篤く庇護され
時には厳しい廃仏毀釈にあう 僧侶たちの姿が取り上げられているのだが
彼らの信仰形態は 総合仏教のようなものだったのだろうか?
当時 民衆に仏教はどのような形で関わっていたのか? そもそも浸透していたのか?
あるいは浄土信仰の興隆は周辺部だけだったのか?
文章として記録されている歴史は権力者だけの限定的なものであり
末端民衆の歴史は 手がかりがない なかなか遡りがたいということなのだろうけど
3 父母不拝は仏教の特徴なのか?
こういうことが この論文集では常識のように書かれている
本当にそうなのだろうか?
推測するに 父母孝養は君主崇拝とワンセットで儒教で説かれるから
その強制に対抗するために 中国僧が主張したということか?
あるいは仏教が出家ということを重視する 世俗を離れるということを教義にもつということが
やはり儒教思想 そして国家から危険視されたということだろうか?
4 「教行信証」に法琳「弁正論」が引用されている意味は?
親鸞は 当然 中国での廃仏毀釈についての知識をもって
その最前線で活躍した護法法琳の書から引文しているわけで
そうした視点から化身土巻を もう一度読み返してみたい
5 古代中国の廃仏毀釈と明治富山の合寺令を繋ぐものは?
廃仏毀釈の源が古代中国にあることは明らかで
仏教を政治主権の下に管理するための方策には多くの共通点がある
その中でも唐の高祖李世民が実施しようとした
「州ごとに一寺、三十僧に留め、他はすべて還俗させる」(p55)というものは
明治維新直後に富山藩が断行した合寺令と似ている
以前にも どこかで同じ政策が行われたのであろう
そのあたりの経緯を知りたいものだ
以上