正義

高橋哲哉デリダ言語哲学法哲学に関する議論をパラレルに論じて、デリダの言いたかった事を明確にしようとする方途をとっています。原エクリチュールがあることと、国家が樹立されることを、デリダは同じように論じている、ということです。

デリダによれば、いかなる国家、国民、「国民国家」の創設も、例外なしにこうした構造(暴力によって成立したということ)を持つ。このことを問題にするのは、専制国家と共和制国家、全体主義国家と民主主義国家など、最悪の国家と‘よりましな’国家との区別を無化し、ひとしなみに悪と見なしたいためではもちろんない。なによりも、例えば‘最良の’国家と自負したり、‘正義の’国家と自称したりする国家でも、国家であるかぎり、必然的に内包する暴力を忘れず、その原暴力が排除し、抑圧し、沈黙させたものを想起するためである。そしてここで国家について成り立つことは、法一般についても成り立つ。デリダ (「現代思想の冒険者たち」Select) p196

meimeiさんへのレスにも書きましたが、「暴力」というのは、人の考えつく、考えついた事柄についての有限性(仏教でいうと、五濁悪世の有情、罪悪深重の凡夫)の事を、言っているのかもしれない。

ところがところが、言語も国家も哲学も、すべてボコボコにしてきたデリダが、脱構築が不可能な概念が存在するというのです。それがなんと、「正義」!
まぁ、ここが、デリダは単なるニヒリストでもポストモダンでもないことが明らかになる、重大なポイントなのですが、この「正義」を成り立たせる条件が、究極的に厳しい(アポリア)のです。そもそも正義の性格は

「まったき他者」の到来として、予見不可能な出来事として「不可能なものの経験」でなければならなない。p206

なんだか、ほとんど無理みたいな(汗)。そして正義の条件が3つ出されています。

  • 「再創出な解釈の行為によって、あたかも極限的にはその法がそれ以前には存在しなかったかのように、あたかも裁判官自身がケースごとにそれを発明したかのように、それを引き受け、承認し、その価値を確認しなければならない。」p209
  • 裁くということは特異性と普遍性などの矛盾する二重の要求を求められることになるが、そうした「決定不可能」という試練を放棄しない。
  • 「正義は「待ってくれない」のであり、「正しい決定はつねに、即刻、ただちに、もっとも早くなされるよう要求される」のである。」p214

これは、具体的にはどういうことを言っているんでしょうね?
私のくたびれたおつむですと二つの判決が浮びました。
まず、このまえ見たザ・ハリケーン [DVD]ルービン・"ハリケーン"・カーターに対するサロキン判事の判決です。映画の中のえん罪事件 原則論なら対象外である事件を、あえて引き受けた裁判。
もう一つ浮かんだのは、不作為の違法性を認定した2001年5月11日ハンセン病国家賠償訴訟熊本地裁判決でした。
個人的趣向が入っているでしょうが、これらの判決が上の条件を満たしているような。
これで合ってるのか?・・・