他者

デリダ (「現代思想の冒険者たち」Select)」の帯にある、「脱構築」についての説明を写します。

形而上学や伝統が、内部/外部、自己/他者、真理/虚偽、善/悪、自然/技術、男/女、西洋/非西洋などと階層秩序的二項対立を立て、支配的な項の純粋現前を追及することには、そうした思考ではとらえられない「他者」を排除する欲望が潜んでおり、脱構築的思考はその欲望を暴き出そうとする。しかし脱構築とは否定に終始するニヒリズムではなく、他者を他者として受け入れ、その呼びかけに応え、決して現前しない「正義」の到来を志向する。それは哲学、芸術から政治、倫理、法、宗教などあらゆる営為をとらえ直す、ラディカルな「肯定」の運動である。

前に「正義」の条件を満たしてるんじゃないかという判例をあげてみましたが、「決して現前しない」のだから、「正義を志向したと個人的に思われる判例」に訂正します。
そして、この「正義」に大きく関わる「他者」という概念とは何か、ということを読み取ろうとしているのですが、どうも、よく分からないのです。
とりあえず、キルケゴールのキリストの「神」という他者、そして、レヴィナスが人にも無限の他者性を見てとることの両方を、デリダ脱構築の対象としてます。
あるいは、他者という概念を出すなら「主体」はどうなるのかということですが、自/他の脱構築に基づいて、主体が批判の対象になります。

主体とは、他者との関係に開かれようとするなら、ぜひとも縁を切らねばならない「構成された正常性=規範性」そのものである。(略)この意味で、決定不可能なものの経験とは、主体が他者に先立たれる経験、他者に呼び出され、召喚され、要求されるがままになる経験、要するに、主体が主体でなくなる経験としてしかありえない。p247

加藤典洋の「歴史主体」を批判するのに高橋哲哉は、この論法を用いているようです。
小熊英二研究室所収
「『敗戦後論』と『戦争責任論』を読んで」(松本純平)

ま、以上のようなことなんですが、ではデリダのいう「他者」とはいったいなんなのでしょう? 今のところ、私には分かりません orz ただ、真宗学徒として、このあたり、非常に興味が湧いております。脱構築によってあらゆる分野の暴力性を浮き彫りにしていく手法には、火宅無常の娑婆という末法観を連想しましたが、「まったき他者」には絶対他力の匂いがするような気がして。あと、決してニヒリズムに堕ちることなく、「方便」(仏教用語として)を使うことを恐れないという点が、とても気に入っています。
まぁ、流行もの好きな先人が、だいぶいらっしゃるようですがねw